信州須坂移住支援チーム

「須坂市に住んでよかった」 「須坂市に住んでみたい」と思える魅力的なまちを目指しています。

2020/03/23

移住支援エッセイvol.31「笑顔で長生きに」

Permalink 16:59:52, カテゴリ: エッセイ  

新型コロナウイルスの影響でストレスが溜まってきた人も多いと思われる今日この頃
中止、休校、閉鎖の負の文字がメディアで流れ笑顔も失いそう
笑顔の大切さは以前に発表された研究結果からも人体に大きなプラスの影響を及ぼすことが証明されている
笑顔の無い人より作り笑いでも笑顔でいる人の方が平均寿命が伸びるというもの
意識的に変えるだけの作り笑いでも体に良い影響を与え
作り笑いが周りの人の表情も和らげ更なる良い影響を及ぼすそうだ
その「意識」が長生きに重要だという
自然に笑って過ごせる日がいかに幸せなことか実感する今
山あり谷あり人生は新しい日々の連続
待ち遠しい須坂の春、まずは笑顔で迎えたい

(須坂市移住・定住アドバイザー 豊田貴子)

ただいま!峰の原高原vol.10 「峰の原高原地域おこし協力隊を退任します」 

Permalink 15:50:42, カテゴリ: 地域おこし協力隊  

須坂市峰の原高原地域おこし協力隊の古川です。2018年4月から峰の原高原で活動をはじめ、およそ2年が経ちました。この度、私古川は2020年4月から峰の原高原のペンションの経営などに専念し、協力隊を退任することとなりました。今回のメルマガでは私の峰の原高原における地域おこし協力隊の活動とその中で感じたことなどをお伝えさせていただきます。

●Uターン
私は、地域おこし協力隊の制度を利用し、大学卒業後、地元にUターンしました。偶然私が制度上可能な条件を満たしていたため、選択肢として考えることが出来ました。これは運が良かったです。
須坂市、峰の原高原は、ペンション村として、観光地とうたってはいるが、現実はどうなんだろうか。今でこそなんとなく分かってきましたが、当初は何も知りませんでした。それでも人口減少、高齢化などなど、今どきどこにでもあるような問題に直面しているであろうことは容易に予想できます。きっとそれは、私一人が帰ったことで解決できるものではないとは分かっていました。しかし、私は実家がペンションだったこともあり、両親がペンション経営をしている姿を見ていました。元々内部から見ていた、勝手の知った場所。そこに協力隊の制度で入りこみ、将来を考えながら地域のことも考えられるならば、利用してみよう。そんな思いから、私は須坂市峰の原高原地域おこし協力隊の制度を活用しようと決めました。
なにより、私は地元が好きでした。それだけです。

●峰の原高原
峰の原高原は、50年ほどの歴史がある標高1500メートルのペンション村です。「ペンション村」なんです。言い方は少し悪くなってしまいますが、お金が落ちる場所がペンションくらいしかないんです。要するに、日帰りのお客さんの場合、お金が地域に落ちにくいのです。かつて夏はテニス、冬はスキーのお客さんが日帰りの方もそこそこいたそうですが、現在はかなり少なくなってしまっているようでした。ちょうど私が峰の原高原に戻った年、今まで峰の原高原スキー場を経営していたところが撤退しました。現在に至るまで、スキー場に関しては紆余曲折あったのですがここでは省略します。とにかくかつてはメインと言えるほど多かったらしいスキーのお客さんも減ってきているなかで、地域としてどのようなことが出来るのかはいまだに課題として残っています。ペンションの数は最盛期に比べるとおよそ半分。あと10年、20年経ったときに、どうなっているのでしょうか。不安もありますが、近年は私のように協力隊を入れたり移住される方がいたりと、期待もあります。

●地域おこし協力隊
地域おこし協力隊とは、実際は人を指すのではなく、制度を指す言葉です。私はその制度を利用して移住(Uターン)してきた隊員というわけです。各市町村によって、移住してきた協力隊員が何をやるのかは様々です。私の場合は、いわゆるフリーミッション型で、地域の中で観光協会を手伝いながら将来を考えつつ働く、といったような感じでした。

●活動
地域おこし協力隊を始めたとき、活動内容として考えていたものは、「情報発信」「オリジナルグッズ製作」「ペンション業務」などを考えていました。
そもそも峰の原高原観光協会はペンションオーナーたちを中心に地域の住民で役割を担っている任意団体でした。専念できる人がいない、というのが大きな問題です。ペンション業の片手間に情報発信ができるかというと、やはりどうしても厳しいらしくなかなかできていないというのが現状でした。そんな背景もあり、観光協会からは情報発信はどんどんやってほしい、と聞かされていました。私自身やったほうが良いとは思っていたこともあり、活動の一つとして情報発信業務を行ってきました。情報発信ツールとして管理しているSNSは、Facebook、Twitter、Instagramなどです。2019年に入り、YouTubeなども行ってきました。私は主にTwitterを利用しています。どのSNSも、メリットとデメリットがあるとは思いますが、より広い範囲の人に向けて情報発信を目指すならTwitterが向いていました。(あくまで私の使い方の場合に限った話ではありますが。)
★峰の原高原観光協会Twitter
https://twitter.com/minenohara
★峰の原高原観光協会instagram
https://www.instagram.com/suzaka_minenohara

「情報」の取り扱いはとても難しいです。というのも、私の世代は「インターネット上に個人情報を書いてはいけません!」「顔写真なんて絶対ダメです!」「人の顔が写っている写真を勝手にインターネットにあげると裁判になる可能性もあります!絶対だめ!」と教わってきた世代です。インターネットやSNSをめぐり、様々なトラブルに巻き込まれてきた世代、というわけです。しかし、「観光協会での情報発信」となると、たとえばイベントごとなどでは外部からも参加してくれる方がいらっしゃるわけです。記念にはい、チーズ。よくあるシーンですよね。さて、ここで撮った写真はSNSで情報発信として使用してもいいのでしょうか。名前は伏せますが、とある自治体ではこういった写真をSNS上に載せたところ、勝手に載せられるなんて聞いてない、といったようなクレームが来たという事例も少なくありません。今どきこんなこと気にしている方が正直少ないとは思いますが、前例がある以上避けられるリスクは避けるべきですよね。しかしそういったことに関して、「気にしない人が多い」ということに一番苦労しました。「大丈夫大丈夫~」という感じです。おおらかで大変ありがたいのですが、撮影とSNS掲載の可能性をお伝えしてからイベントや撮影を行うようにしました。これは峰の原高原観光協会が任意団体だからということもあります。例えばテレビや新聞など、報道関係や行政の資料などの場合はもし許可がなかったとしても問題ないそうなのですが、個人や任意団体となると話が違ってくるそうです。背景の一部とみなせるような単なる映り込み場合は問題なかったり、それでも顔が明確にわかってしまう場合は問題になることもあったり…と事例は様々です。要するに人が写っている場合は許可を得ておいた方が無難ということです。「地域おこし協力隊」として考えると須坂市の嘱託職員と見られるのですが、私の場合厳密には「峰の原高原観光協会所属」になっていたため、微妙な立場でした。なのでかなり気を付けたつもりです。それでも時には問題がどこかに隠れているかもしれない。自分から世界に向けて発信する情報の中に問題が潜んでいるとしたら、怖いですよね。簡単に情報発信とはいいますが、意外と壁だらけであったことに気付き、苦戦しました。…正直今の時代、「そんなに気にしなくても問題ないだろう」というのが現実な気もしますが。何が正しいのかはもうわかりません。

私は私個人の、須坂市や峰の原高原とは何の関係もないただの古川広野としてのアカウントでの情報発信も行っていました。
https://twitter.com/coopemine18
観光協会ではなく協力隊個人としての活動も発信するという目的がありましたが、あくまで個人的なものという扱いでした。また、これならばイベント毎の宣伝をし、もし何か問題があったとしても私個人の責任として受け止めればいいだけで済みます。個人と団体のアカウントを使い分けることはメリットが大きかったです。
余談ですが、須坂市の人はなぜかFacebookユーザーが圧倒的に多いという印象を持ちました。世代的な要因もあるのかもしれませんが、ほかの自治体と比べても多いように感じました。なぜでしょう。不思議ですね。

情報発信をしていく中で、峰の原高原の景色の魅力に気付きました。昔住んでいたころは、当たり前すぎて全く気にしなかったです。小さい頃から住んでいたので、夕陽は見えて当たりまえだし、夜外に出れば星は見える。天の川も別に普通に見られる。流れ星も普通。花はきれいに咲いているし、冬になれば樹氷が見られる。本当に、普通でした。どれもこれも日常の中で見られる景色だし、絵本にだって星空や夕陽はだいたい同じように描いてあるから、「まぁそういうものなのだろう」という感じでした。都会では星空は見にくい、といったようなことを頭では理解していても実感がありませんでした。
大学を機に峰の原高原を離れたことで、魅力に気付けるようになりました。景色が良いと気づいてからはカメラを持ち歩き、シャッターを切るようになりました。写真はやればやるほど奥が深く難しいものでしたが、撮った写真を発信していくなかで峰の原高原に興味を持ってくれる人が出てきました。百聞は一見に如かず、ですね。情報発信においても写真というのは大変有用なツールでした。少しずつ写真を撮るのにも慣れてきて、何度か写真を展示したり、フォトブックを製作したりしました。最近だとコンテンツワークス様主催の「ジモトジマンコレクション」という企画に、峰の原高原の冊子を作成し、応募したところ、「もの部門」に入賞いたしました。本当にありがたいです。
★「ジモトジマンコレクション」もの部門入賞!
https://www.contentsworks.co.jp/2020/4thresultannouncement

協力隊の活動の中でも写真を撮ってきて、その中でも気に入った写真をまとめ、冊子にしたものでした。自分がUターンしたことで見えるようになった景色を、素直に冊子にまとめたものがこういった形で選んでいただけたことがとても嬉しいです。
作成した冊子はweb上でも見ることが出来ますので、お時間のある方はぜひ見ていただけると嬉しいです。
★フォトブック「自然の中で」
https://www.memepaper.jp/MEME-7254762001281550470

また別の発信方法として、SNSやYoutubeなどに掲載する短い動画を活動の中で作り、発信も行っていました。市内でも「動画みたよ」などと声をかけていただけたことがあり、とても嬉しかったです。
★Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCuzY28MzLX35yp7-xlXr5kQ

●グッズ制作
須坂市内にあるレーザー加工機を利用し、峰の原高原オリジナルグッズの制作なども行いました。初めの頃は機械の使い方も全くわからず苦戦してばかりでしたが、丁寧に教えていただきながらなんとか使えるようになりました。試行錯誤を繰り返しながら峰の原高原に昔から居たマスコットキャラクターのMr.ヌーキーのキーホルダーを制作していました。色々なイベントなどで販売したり参加賞としてお渡したりする中で、知られていなかっただけで結構人気がある事を知りました。失礼ですが、意外でした…。Mr.ヌーキー、すごかったんだなぁ…。レーザー加工が利用できるのにストラップくらいしか作らないのも正直もったいないとは思うのですが、加工時間と費用などを考えると一番製作しやすいのがやはりストラップ、キーホルダーの類でした。なかなか単価を抑えられないのが悩みではありますが、製作したキーホルダーを喜んでくれたり、ぼろぼろになるまでつけていてくれたりするのを見ると、かなり嬉しいです。
今年度に入り、Tシャツやパーカーなども製作しました。やっぱりここでもヌーキーは人気なようです。

活動の中で、峰の原高原にはファンがいる、ということをよく感じました。例えば、グッズを見てくれたり、買ってくれたりする人の中には昔から峰の原高原を知っているような、またはペンションによく泊ってくれているような方がとても多いです。様々なイベント毎などでも、峰の原やペンションさん毎のリピーターがとても多かったです。お客さんからも愛されている地域、というのは素敵なことだと思います。それは今まで峰の原高原に暮らしていた方々が、地域と人を大切にしてきたからだと思います。

●今後と将来
冒頭にも書きましたが、今後私は須坂市峰の原高原でペンション経営を行います。協力隊の活動の中でいろいろ考えはしましたが、やはり峰の原高原という場所で選べる職業は少なく、宿泊業は今の私の状況を考えると一番現実的でした。情報発信は大事ですし、地域に必要なことであるとも考えられます。しかしなかなかお金にならないのが現実でした。峰の原高原観光協会はあくまで任意団体であり、現段階では人を雇うということは考えられませんでした。そうなると、この場所で生計を立てる手段としてはやっぱりペンションなのだと思います。
この2年間、短い期間ではありましたが今までとは違う目線でペンション業という仕事に触れました。日本におけるペンションは、ヨーロッパから入ってきた「ペンション」という宿泊形態が日本独自のスタイルに変化したものです。ホテルや旅館などの宿泊業とは少し異なる、「日本でのペンション」という形式。峰の原はその中でもさらに特殊な経営をしているかもしれません。オーナーとお客さんの距離感は、ホテルとも、ゲストハウスとも異なる特有のもの。言葉では説明しきれない独特のものがあると考えられます。お客さんとオーナーが対話したりすることで生まれる距離なのだと思います。

また現在の峰の原高原の場合、夏は学生の合宿が多いです。学生にとって、夏の合宿は一大イベント。もちろん遊びできているわけではありませんが、思い出には残るものだと思います。私自身学生の頃に行った合宿などはよく覚えています。良くも悪くも「特別」なわけです。学生にとって最後の合宿の年、泣いている学生がいることもあります。そんな思い出に残るひとつの場所としてペンションを提供できることが、すごく不思議なことに感じました。学生が泣いている理由はわかりませんが、少なくとも感情になにかしらの変化があったためでしょう。その涙の理由のなかに、「ペンションの思い出」が良いものとして含まれていたら、とてもありがたく、嬉しいことだと感じました。もちろん合宿以外のお客さんにも、そんな素敵な思い出を提供できるようなペンションを作ってみたいと思うようになりました。そんなこともあって、ペンション業は強く興味の魅かれるものになり、この峰の原高原でなら頑張ってみたいと思えました。もちろんペンション経営は簡単なものではないと思います。それに、今後5年、10年と経った時にはペンションの数は減ってしまっているかもしれません。それでも峰の原高原の「ペンション村」という文化を少しでも維持できるよう、努力いたします。

この2年間、須坂市内の方をはじめとし、多くの方に大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

(須坂市地域おこし協力隊 古川広野)

豊洲フルーツハリウッド農ガール物語vol.10「3年間本当にありがとうございました」

Permalink 14:22:03, カテゴリ: 地域おこし協力隊  

~退任にあたりこれまでの取り組みを振り返りました~

●協力隊を目指した理由と採用までの経過
私が地域おこし協力隊となったきっかけは都内で行われていた長野県の移住相談会でした。参加した理由としてはすぐに移住したいからということではなく、いつか住みたいからどんな市町村があるのか話を聞きに行こうかなといった軽い気持ちでした。しかし、会場でお会いした須坂市の職員の豊田さんに一度須坂市を見においで!と誘われたのと、豊洲地域公民館の山﨑館長(当時)の豊洲地域への思いや協力隊に期待する役割などの話を聞いて興味がわき、一度豊洲を見てみたいという気持ちになりました。そこで豊洲を訪れ、市内を巡り、自然がとても身近な須坂市がとても気持ちよく、すぐに好きになりました。

そこで私はいつかしたいと思っていた移住、今現実に可能ならばいつかと言わず、このタイミングでしてもいいのではないか?しかも今なら移住して就職もできて住むところもある!良いことしかない!と考えました。
しかしそれまでの私は、長野県と言えば軽井沢が別荘地というくらいしか長野県のことを知らず、また地域おこし協力隊という制度についてもほとんど知りませんでした。そのため、こんなろくに知識もない私が地域おこしなどという大層なことができるのか、そして受け入れてもらえるのか、正直とても不安でした。それでも、移住相談会や個別相談会、そして須坂市内を案内してくれた皆さんが「気負わずに、出来ることからやってくれれば良い」、「来てくれるだけでも地域活性だ!」といったいろんな温かい言葉をたくさんかけてくださったこともあり、不安はあるけれど挑戦してみようという前向きな気持ちになることが出来ました。そして副市長との緊張の面接を乗り切り、ついに、地域おこし協力隊として着任することになりました。

●採用されてからの思い出、感じたこと
私のもとに採用通知が届いたのは、活動開始日(2017年6月1日)のおよそ1か月前のことでした。これから暮らす住居の選定、引っ越しの手配、住民票の移動など、あれやこれやとしているうちにあっという間に1か月という時間が過ぎたように感じます。

何はともあれ、新天地。長野電鉄に乗った時に、なんと人生初のもぎりを体験(見学に来たときを除く)しました。切符は自動改札機に通すものだと思っていた私にとって、改札に駅員さんがいて切符にスタンプを押してもらうのはとても新鮮な体験でした。ちなみに私が乗ったのは偶然ですが「湯けむり号」でした。名所で電車が止まって景色の撮影が出来て、乗務員の方が案内する沿線の観光スポットや歴史、名産物に関する説明を聞きながら乗れる観光案内列車です。須坂に向かう景色を眺めながら、勝手ながらまるで長野県に歓迎されているような気持になり、うれしくなったのを覚えています。記念に車内販売でエリンギ寿司を買いました。

●1日目、1か月、1年、2年、3年で感じたこと
これまで住んでいた千葉県とは違い、須坂市は5月下旬でも朝晩の冷え込みが厳しい時があるということを知りませんでした。私はそれまでの感覚で、布団は追々揃えようと夏のうす掛けしか持ってきていませんでした。しかし須坂市に来て1日目の夜、私は寒くて眠れず、夜遅くに駅前のスーパーまで布団を買いに行くはめになりました。後から聞いたのですが、この時期でも昼間は暖かく、朝晩が冷えるというのは須坂市ではたまにあることだと、コタツもまだ出してる家もあるのだと教えていただき、風土の違いにとても驚きました。

最初の1か月は、豊洲地域のとにかくいろんな所へ山﨑館長(当時)が連れ出してくれて、公民館のサークルや講座への参加や、隣接する豊洲小学校と連携した信州型コミュニケーションスクールの活動など、色々な面からサポートしてくれました。そして1年目の締めくくりとして、公民館で成果発表会を3月に開催しました。これは豊洲地域の皆さんにより私のことを知っていただくため、あえて1年目で行いました。当日は目が回る忙しさでしたが、お越しいただいた皆さんに地域おこし協力隊としての活動や取り組みを紹介することが出来て、充実した成果発表会となりました。

2年目は様々な摘果りんごを使った加工品の試作をしました。さらに信州大学のゼミ生を招き、試作品や地域おこしについて商品化、ブランド化を含めた意見交換会など行い、摘果りんごを最も有効に活用できる加工品について模索していきました。自分とは違う、大学生の意見や視点が新鮮で、加工品の試作にとても参考になりました。また、豊洲小学校との連携では、春の遠足や社会科の校外学習、月に1度の放課後のクラブ活動(料理クラブ)に参加しました。近頃は子どもと接する機会がなかったので最初は不慣れな部分や戸惑いも多くありました。しかし皆さん驚くほど素直で、興味津々で話しかけたりしてくれるので馴染むことができ、毎回とても楽しく授業に参加することができました。

そして3年目は2年目の試作をもとに摘果りんごをジュースに加工、商品化を目指し市場調査を行いました。そのために春から夏にかけ農作業に参加し、豊洲のりんご農家の土屋さんや吉池さんに協力していただいて摘果りんごを採取、加工しました。りんご畑は開放感があり、合間に世間話を挟みながらの作業はとても楽しい仕事でした。

●摘果りんごを活用した取り組みその1「ジャムあんこぱん」
摘果りんごを使った加工品として最初に思い浮かんだのはジャムでした。しかしジャムを試作してみたところ、未熟果のためペクチンや水分の含有量が少なく、粘度が出ずにやわらかくもならないのでうまくいきませんでした。そこで、このジャムもどきを活用するためにあんこに方向転換することになりました。あんこをおいしく食べるには何が良いかを考え、最初は王道の和菓子を作ってレシピ公開することを試みましたが、作るのに手間がかかるということで断念。つぎにパンに塗って食べたらどうかということになり試食。すると、摘果りんごジャムとパンの相性が良くとてもおいしかったので、あんこぱんにして販売できないか検討しました。けれど販路の確保など条件が難しかったのと、もっと手軽に摘果りんごを加工できるものが出てきたため、ジャムあんこパンは販売されることはありませんでした。

●摘果りんごを活用した取り組みその2「摘果りんごカレー」
摘果りんごカレーは偶然できた試作品でした。1年目に開催した成果発表会で、試作品の試食会も合わせて行うことになりましたが、試作品が甘いものばかりでしかもお腹にたまるものがありませんでした。そこで、1日かけて開催するのだから、お昼ご飯の代わりになるお腹にたまるものも用意しようと意見が出ました。そうして出来たのが摘果りんごカレーです。材料は摘果りんごとたまねぎとルーだけというシンプルなものでしたが、成果発表会では意外なことに大変好評でした。作るのもそこまで難しくなかったので、あんこパンと合わせて販売できないか検討しましたが、残念ながらあんこパン同様の理由で、販売には至りませんでした。

●摘果りんごを活用した取り組みその3「摘果りんごジュース」
様々な試作をするなかで、もっとシンプルに摘果りんごそのものの栄養を手軽に摂取することはできないかという意見が出るようになりました。それというのも摘果りんごと成熟りんごの比較成分分析の結果から、りんごの持つ総ポリフェノール量は、小さな実の未熟果のころから収穫を迎える大きな成熟果まで変化がなく、未熟果の方が効率よくポリフェノールを摂取できることが分かったからです。さらにポリフェノールは熱を加えることで変質する為、過度な熱を加えないジュースが適しているのではないかということになりました。もちろんジュースに加工する際は加熱殺菌処理をしますが、出来上がった摘果りんごジュースの成分分析をしたところ、成熟果のジュースのおよそ2倍のポリフェノールを含んでいることが分かりました。そこで摘果りんごジュースを大量生産できるのか、出来たとして生産したジュースの需要を見込めるのか、アンケートを含めた市場調査を行うことにしました。

3年目の春から夏にかけて、ジュース加工のために豊洲の農家の土屋さんの協力を得て農作業を手伝いながら摘果りんごをつみとりました。重さにして約220kg、りんご箱12箱分の摘果りんごを集めることが出来ました。
摘み取った摘果りんごは長野県農村工業研究所で残留農薬検査を行い、安全性を確認したのち、加工しました。ジュースの加工は、加工場を持っている豊洲の農家の吉池さんに協力してもらい、手伝っていただきながらやり遂げました。こうして約220kgの摘果りんごから、150本(1ℓ/本)のジュースが出来ました。

ジュースが出来上がれば次に考えるものはジュースの顔ともいえるラベルです。豊洲らしさを考えながら自らデザインし、同じ協力隊(商業観光課所属)の宮島さんからもデザインを提供してもらいました。しかし、ラベル次第でジュースのイメージが決まってしまうと思うとなかなかデザインを絞ることが出来ず、結局ラベルもアンケートの対象にすることにしました。当初ラベルは表側の1枚だけでしたが、農村工業研究所職員のアドバイスを受け裏側のラベルも作成しました。成分表示や製造元といった販売する際に必要な表示もしっかり盛り込みました。ところが準備を進めていた最中の10月、台風19号により公民館が床上浸水、保管していたジュースの1/3が水に浸かってしまいました。そもため、衛生面を考慮し水に浸かった分は廃棄することにしました。本数は減ってしまいましたが、残りの摘果りんごジュースは公民館の講座やサークル、協力隊として参加した県外の産直やマルシェ、移住相談会など様々な場所で試飲・アンケートに活用することが出来ました。

今年の2月に行われたふるさと信州須坂のつどいでは、参加者の皆さんのお土産としてアンケート付き摘果りんごジュースを用意することになり、在京の須坂市出身の方に摘果りんごジュースを広める良い機会となりました。アンケート調査の結果としてはおおむねさっぱりとした味が好評でした。また、ジュースのストーリー性が大切だというご意見や、首都圏やインターネット販売(デパートなどと提携)したらどうかといったアドバイスをいただき大変参考になりました。摘果りんごジュースは販売までは至りませんでしたが、こうした試飲やアンケート調査の結果、認知度を広め、工夫して販売すれば十分需要はあると感じます。

●スムージーレシピコンテストに参加
協力隊1年目の秋、須坂市健康づくり課のスムージーレシピコンテスト(第1回)に参加しないかと誘われ、応募、参加しました。ちょうど摘果りんごの残留農薬試験の結果が出たころでした。摘果りんごを使ったスムージーレシピを提出し予選を通過、本選は信州医療センター健康まつり内で行われるスムージーレシピコンテストで行われ、5分程度のスピーチをしなければなりませんでした。コンテストはこの健康まつり内で試飲ができる一般投票に加え、審査員が投票し、順位が決まるというシステムでした。スピーチは苦手ですが摘果りんごを広める絶好の機会と思い、心臓をドキドキさせながらもなんとかスムージーのPRをし、3位に入賞することが出来ました。実は本選出場が決まってからは、山﨑館長(当時)や北原主事を相手にひたすらスピーチの練習をしていました。2人相手でも緊張するのにはたして本番は大丈夫かと不安になりましたが、1度話し始めれば練習のおかげか震えながらもすらすらと話すことが出来、ほっとしたのを覚えています。

●アグリ豊洲の会と江東区豊洲で産直
1年目からお世話になっていたのが、豊洲の農家の皆さんで結成した「アグリ豊洲の会」です。元々は豊洲という地名から、東京都江東区にある豊洲小学校の児童とお互いに交流したり、あちらの豊洲にある公園にりんごの木の植樹をしていた会だったそうです。しかし、児童数の変化や環境の変化などといった影響でだんだんと疎遠になりました。そして一時は途絶えた交流を数年前に復活させたのが、現在の会長である丸山さんです。現在は年に1度、10~11月頃に江東区の豊洲へ行き、こちらの豊洲で採れたりんごやぶどう、野菜、キノコなどを販売しています。毎年この時期に来ることを覚えてくださっている地元の方もいて、いつも予定の時間より早くに売り切れます。産直の場所は毎年同じ場所で、シエルタワーという豊洲駅前の複合施設です。その名の通り高層の建物でいつ見上げても圧倒されます。

私は豊洲のPRのために毎年参加させてもらいました。産直では豊洲を紹介するチラシや掲示用のパネルを作り、当日は産直で使えるようにと作った揃いの半被を着て売り子をしていました。それに加え3年目は摘果りんごジュースを持参し、アグリ豊洲の会の皆さんにも試飲に協力してもらいました。産直ブースの一角に試飲コーナーを作り、買い物にきたお客さんにアンケートをお願いするというものです。試飲したお客さんはジュースも売っているものと思い、何度か購入したいというお声をいただきましたが、アンケート調査が目的だったので残念ながらお断りしました。しかし、こうして首都圏で購入意欲のある方がいることが分かったのは大きな収穫といえると感じました。

●消防団第5分団2部
消防団に入団するきっかけは、9月に行われる豊洲小学校運動会でした。そこに来賓として招待されていた5分団の分団長に紹介され、1年目の冬、入団するに至りました。入団して初めての行事はなんと出初式。事前に行進の練習はしましたが、右も左も分からぬまま、不安を残しつつラッパ隊員として参加することになりました。当然ラッパも吹けないので、曲に合わせて上げ下げするだけですが、慣れない姿勢だったこともあり、上げ下げのタイミングや歩幅がずれたりとても苦労しました。出初式にはこれまで3回参加しましたが、年に1度なので毎回似たようなことで苦労している気がします。

その後もこれまでの間、5分団のラッパ訓練に参加し、練習しました。一度は須坂市消防技術大会ラッパ吹奏の部へ出場したこともあります。練習は大変でしたが、終わった後の達成感は格別でした。その他にも年末の歳末夜警や訓練など消防団の活動に参加しました。おかげで少しは鍛えられたように思います。今春で協力隊は卒業しますが消防団には変わらず所属し、活動に参加していきたいと思います。

●南小河原町公民分館主事と組長
山崎館長(当時)曰く、住む町を知りたければ分館に携わろう!ということだったので、6月に協力隊として活動を始めたのと同時期に、南小河原町公民分館のお手伝いとして参加することになりました。手伝いとはいえ、当時は町のことは全く分からないよそ者です。仕事を教えたり、割り振りを変えたり負担が増えた部分があったと思います。それでも分館役員の皆さんはとても温かく迎えてくださいました。実際に行事に関わることで町の仕組みを理解し、区民の皆さんに顔を覚えてもらうことが出来ました。

次の年からは正式な分館主事として迎えていただきました。南小河原町は1年を通して行事が多く、夜の会議や休日のイベントの運営などやることはたくさんあり大変でしたが、終わってみると不思議で少し寂しいような気もします。さらに分館主事と合わせて隣組の組長の順番もまわってきました。そもそも隣組や回覧板といった仕組みを理解していなかった身としては、組長は未知のものでした。皆さん色々と教えてくださるのですが、なかなか理解が追い付かず苦労しました。それでも一つずつこなしていき、何とか次の方に組長を引き継ぐことが出来て安堵しています。一度経験したので、次に組長が回ってきたときにはもう少しスムーズにこなせるようになっていたいです。

●りんご畑
地域おこし協力隊として活動するにあたって、私とりんご畑は切っても切れない関係だと思います。摘果りんごの調査や採取など、豊洲のいろんな農家の皆さんに大変にお世話になりました。どの方も親切で「摘果りんごについて調べるなら」と、とても協力的でした。なかでも、1番初めに摘果りんごに協力してくれたのは当時豊洲地区の地域づくり推進委員だった上野原さんでした。上野原さんは多種多様な果樹を栽培し、りんごも人気の品種から珍しい品種まで様々栽培していました。そこで実際に畑へ行き、りんごについて実物を見せながら丁寧に教えてくれました。摘果りんごの残留農薬検査にも協力してくださいました。おかげで摘果りんごが食べられるということが分かりました。地域おこし協力隊として、摘果りんごの活用法を探るうえで早い段階で食用に方向性を転じることが出来たのは、この検査と上野原さんの協力があったからだと思います。

●ジュース加工
摘果りんごを最初にジュースに加工したのは、2年目の9月長野市にある長野県工業技術総合センターでした。なぜこのような場所かといいますと、須坂市産業アドバイザーの西さんの紹介によるものです。西さんは私の地域おこし協力隊の活動に多方面から協力、アドバイスをしてくださり、その一つとしてジュースを加工できる場所を教えていただきました。当日は西さんも加工に参加して下さり、山﨑館長(当時)と3人で、約30㎏の摘果りんごを加工しました。この時は結果から言いますと失敗してしまったのですが、約18ℓのジュースが出来ました。理由としてはこの時使用した器具がりんご専用のものでなくトマト用の搾汁機だったことで、りんごの搾りかすが混入したからです。また、ジュースの加熱殺菌の際の温度管理がうまくできず、成分分析の結果総ポリフェノールがほとんど検出されませんでした。思うような検査結果が得られなかったため、失敗を踏まえもう一度少量のジュースを加工し検査しました。すると、正しく加工すれば総ポリフェノールは期待通り検出されることが分かり、この結果をもとにジュースの大量生産をすることが決まりました。

●公民館とわたし
私は公民館に配属された協力隊員です。そのため、自身の活動に加え、公民館の講座やサークルに参加することが多くありました。時には講座を担当したり、同じ協力隊(当時スポーツ振興担当)の藤井さんとコラボ企画と称して長野ガロンズの選手を講師にソフトバレーボール教室を開催したりしました。自身の講座では調理師資格を生かし、クリスマス前の時期だったのでシュト―レンを作りました。講師は緊張しましたが、参加した皆さんからはご好評いただき、喜んでもらえたのがうれしかったです。さらに後日もう一度自分で作ったと言って持ってきてくださった方もいて驚きました。

ソフトバレーボール教室は7月の球技大会の前に開催したので、大会に出場する女性の皆さんがプロの技を覚えたいとたくさん来てくださいました。皆さん真剣に準備運動から簡単な練習試合まで参加していただき、アンケートにはまたやってほしい、楽しかったといった好意的な意見が多かったです。1回目が好評だったので、その後も長野ガロンズの選手に講師をお願いして2回ほど開催しました。

他にも、公民館の隣には児童クラブがあるのですが、この2つの建物は渡り廊下でつながっています。そのため普段はもちろんのこと、特に長期休みともなれば公民館には子供たちが集まります。そこで、夏休みなどは子供向けの映画会や講座をたくさん行います。私は児童クラブの先生と子供たちが作るカレーをいただいたり、子供たちと遊んだりする交流が楽しみでした。公民館が係る事業にはおおむね参加したと思います。そこで私を含め協力隊について知ってもらうことも多かったですし、ご縁が出来てサークルやクラブに参加したりしました。公民館に所属していた協力隊だからこそできた経験がたくさんあるとわたしは思います。

●最後に
これまで私の活動に協力してくれた皆さん、ここに書ききることはできませんでしたがたくさんいらっしゃいます。支えていただき本当にありがとうございました。千葉県から1人移住し、当初は正直、不安や寂しさが強くありました。それでも日々の生活や活動をしていくうちにいつしかそんな気持ちを感じることがなくなっていました。この土地になじむことが出来たのは公民館をはじめ、地域の皆さんが温かく見守ってくださったからだと思います。

たくさんの出会いがあり、他では得ることのない様々な経験を積ませていただくことができて、私にとってかけがえのない財産となりました。ここで地域おこし協力隊は卒業しますが、これからも須坂市の一市民として変わらず生活していきますので、見かけたら声かけてください。3年間本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いいたします。

(須坂市地域おこし協力隊 成田あゆみ)

2020/03/05

移住支援エッセイvol.30「ピンチから気付けること」

Permalink 16:29:03, カテゴリ: エッセイ  

新型コロナウイルスの影響は広がるばかり
買占め、盗難、詐欺まで起きる事態に
人の心まで変えてしまう状況に私の心は痛む
東京、大阪、名古屋で開催する移住相談会が軒並み中止となった今
私たちが移住希望者にできることは何だろう
普通に出来ていたことが出来なくなる不安は当然ある
周りを見渡せば山も空も夕焼けもいつも通りの風景
ピンチの時こそいつも通りでいられる自分になりたいと思った
あれを乗り越えたんだからと言える日を早く迎えたい

(須坂市移住・定住アドバイザー 豊田貴子)

※須坂市では3/8と3/15の2週にわたって「日曜日テレフォン移住相談」を開催します。
電話で移住相談ができますのでご利用ください!
https://www.city.suzaka.nagano.jp/kurasuzaka/event.php?id=192

誰もが驚くお休み処の秘密とは?!『須坂市ふれあい館まゆぐら』

Permalink 10:17:31, カテゴリ: お知らせ  

◆須坂の歴史的産業遺産をご紹介◆

「ふれあい館まゆぐら」は蔵の町並みの銀座通り一角に無料休憩所として利用されている歴史ある施設です。明治期に旧田尻製糸が建てたもので、当時は繭の貯蔵庫として活躍をしていました。明治、大正、そして昭和の戦後も乗り越え昭和32年に製糸工場としての役割を終え閉業。のちの改修事業によって2001年(平成13年)に「ふれあい館まゆぐら」として生まれ変わりました。

2003年には国の登録有形文化財として、また2007年には経済産業省による近代化産業遺産に認定されています。

●誰もが驚く秘密とは!
知ると誰もが驚くのは「まゆぐら」が元々この場所に無かったということです。現在の位置から180メートル離れた場所から3ヶ月かけて曳家で移動をしました。当時、市がすすめていた都市計画道路の整備により解体を迫られていましたが、歴史ある産業遺産を残す運動を経て生まれ変わった建物です。観光で来られた方に説明をすると大変驚かれるエピソードです。

●製糸業で栄えた須坂を伝える展示品
もともと建物は3階の土蔵造りでしたが、改修によって2階構造となりました。
1階は展示コーナーと休憩処、2階は博物館として養蚕や製糸の資料等が展示されています。

地元のボランティアの方がお茶と手作りのお漬物でもてなしてくれます。お茶をいただきながらDVDで須坂の製糸業の歴史を見ることができます。

ちょうど取材日は信州須坂「わくわく」おひなめぐりの期間中で、1階の展示コーナーには明治から昭和初期までのお雛様が飾られていました。


2階へと続く階段頭上には吹き抜けの天井が広がります。階段の途中には、明治時代に撮影した市内の写真が飾られていて思わず引き込まれてしまいます。

2階天井には当時の梁がそのまま活かされていて、養蚕や製糸機器の展示品がぐるっと囲むように並べられています。

当時はこんな風に繭を保存していたんですね。


須坂で作られた生糸は評判が高く、横浜を経由してアメリカに輸出されていました。日本から東の方角に向けて輸出される由来から「東行社」という同業結社ができたほどです。生糸は、当時ストッキングの原料として高級な素材でした。


当時の製糸工場内

一歩外に出て外観を眺めてみると、壁面に丸い形で「く」の字の金具が刺さっているのが目につきます。

\ここで問題です!/これは一体何に使うものだったのでしょう?

答えは「乳鍵(ちちかぎ)」
当時、漆喰の壁をメンテナンスする際、鍵の部分に木をかけ職人が足場として使っていました。蔵の町並みの建物の多くに、この乳鍵が見られますので、ぜひ注目してご覧ください。

誰でも気軽に立ち寄れる「ふれあい館まゆぐら」は蔵の町並みの休憩処でもあり、製糸業の繁栄と衰退の歴史を辿ることができる須坂の産業遺産です。もてなしてくれるお茶をいただき、ひと休み。

さぁ次はどの蔵へ行きましょうか?

2020年2月29日取材
須坂市移住・定住アドバイザー 豊田貴子

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