もんじょ紹介№4
昔、百々川は落合で合流していた(九反田町区有文書から)
九反田区は、市川(現在は百々川という)と鮎川が落ち合う地域にあります。集中豪雨に襲われると、一気に水かさを増した洪水が集落の周りの堤防を壊して区内に流れ込み、田畑や家屋に甚大な被害をもたらし、さらには境を接する中島・井上・福島方面にも被害を及ぼしてきました。
この市川・鮎川の二つの川は、太古から洪水を繰り返しながら流路を変え、以前には別々に千曲川に流入していた時期もあったようです。それがいつ合流するようになったかは不明ですが、九反田町区有文書によると、正徳から享保・延享年間(1711~1747)の絵図では、中島区との境界の合流点市川に合流しています。そこへ合流する福島からの流路に百々川と記名されています。なぜでしょう。
享保9年(1724)7月の絵図では、落合で鮎川が屈曲して北方向の流路に流入するように瀬割がされています。このことから本流は北に向かう流路であったが、洪水の時だけは本流だけではさばききれずに、膨れ上がった水は南の流路を逆流して福島方面へ向かったものと考えられます。
百々川が北の流路1本になったのはいつ頃のことでしょう。文政10年(1827)5月の絵図にはすでに南からの流路は描かれていません。九反田の集落を洪水から守るために、鮎川の流水を瀬割に沿ってスムーズに北の流路に向かわせるように仕向けたものと考えられます。
九反田村には鮎川の洪水から村を守るために村を取り囲む土提があり、その一部が落合から南の流路に向かって築かれていました。流路が北に向かう川筋で固まったことで、はたして九反田村は洪水の難から逃れることがきたのでしょうか。
文政2年(1819)の「為取替申一札之事」によると、「中島と九反田の地境にあって鮎川の南の方、古百々川筋は先年より川筋跡になっているが、両村の土提の間には堤防がない。そのため鮎川の川床に堆積した石砂が年々高くなり、小洪水でも土提を超えて田地に浸水し苦労している。中島村土提から九反田村土提の間、28間(約50m)に小堤防を築いて浸水を防ぎたい。」と中島村側に相談を持ちかけました。しかし中島村からは大水の際には南の方、旧百々川に水を開かなければ家屋に被害が出ると築堤に反対、両村で改めて相談した結果、両村で28間の場所に川床に沿って川幅に高さ2尺の堰を設け、大水の際にそこから水を開くことを申し合わせています。
このように南からの流路が閉ざされ「古百々川」と称するようになっても、九反田村にとって鮎川筋の浚渫作業の続行と古百々川の川幅に堤防を築くことが、依然として必要でした。
その後、百々川が現在の川筋に移行してからは、古百々川筋に再び水路は開かれませんでしたが、往時の流路の跡が中島区と井上区・九反田区の境界に沿って残されています。
(かつての流路推定図)
(享保9年7月絵図)
(文政10年7月絵図)
(九反田村と中島村が取り交わした文書)
【読下し文】
取替し申す一札の事
一 中嶋九反田両村地境鮎川落合南の方、古百々川筋の左右、先年より川筋跡へ中嶋村土提より九反田村土提まで、長28間の間水除けござ無く候ところ、鮎川筋石砂押し埋り、蓮々高く相成り、小水にても両村お田地へ水押入り難儀に付き、九反田村にては右場所へ小堤相仕立て小水凌ぎたき旨、中嶋村へ相談に及び候ところ、中嶋村にては右場所に小堤これ有、大水の節南の方へ水相開き申さず候ては、住居難儀に付き、字並柳まで一統ご普請仰せ付けられ候儀これ有り、殊に明和5子年両村出入に及び候、済口証文並びに其の節、中嶋村より井上村へ書面差出し置き候訳もこれ有る間、小堤には相成り難し気に付き、此度両村相談の上、双方に右28間の場所川床に川幅に随い高さ2尺、相仕立て水除けいたし、大水の節は右場所より水開キ候様にて村相心得え申すべく候。いらい河筋高く相成り候か又は変地に相成り候節は、双方示談の上立会い差支えに相成ざる様致すべく、右の趣き両村及示談候上は重ねて違変仕りまじく候。これに依り取替せ一札件のごとし。
文政二年卯六月
九反田村
名主 喜三郎 ㊞
組頭 甚左衛門 ㊞
百姓代 栄治郎 ㊞
中嶋村
名主 六兵衛 ㊞
同断 嘉藤 ㊞
組頭 六郎右衛門 ㊞
同断 平右衛門 ㊞
百姓代 栄七 ㊞
同断 八郎左衛門 ㊞
んじょ紹介№10
苦しむ福島宿 -賄い金未払分の支払い願いを出す-
明治維新直後(明治元年・1868)の戊辰戦争や中野騒動(明治3年)が起きたころ、北國街道ぞいの福島宿は、官軍や松代藩の兵隊が立ち寄り、昼食や夕食の「賄い」のほか「草鞋(わらじ)」の準備などで大忙しでした。
ところが、賄いの支払いは即金ではなく「ツケ」で処理されていたため、支払いが滞ってしまい、不払い金の回収に苦慮することとなりました。何度も御下げ金(支払金)を催促しましたが、思うに任せなかったようです。
【長野県に提出した未払金内訳書】
【書下し文】
記
一 九拾九賄 御官軍
代銀四百七拾匁二分五厘 岩村精一郎様
御賄〆
一 四百六賄 尾州様御賄〆
代銀一貫九百二拾八匁五分
一 八千七百九拾賄 元松代藩御賄〆
代銀四拾壱貫七百五拾弐匁五分
一 草鞋百七拾八束 草鞋入料〆
代銭壱八貫九百文
此銀百拾三匁四分
去ル辰年分(明治元年分)
合銀四拾四貫に百六拾四匁六分五厘
為金七百三拾七両弐分弐朱、銀七匁一分五厘
内
金四百両 去ル辰年中
御下金相成候・・・明治2年に支払われた分
引テ金三百三拾七両弐分弐朱 銀七匁壱分五厘・・・未払い分
一 千八百拾二賄 中野須坂管下村々騒擾
事件ニ付元松代藩
御人数御賄〆(〇中略)
一 草鞋百八拾五足 右同断草鞋〆
(〇中略)
去ル午年分(明治3年分)
合銀五貫五百三十八匁
為金九拾弐両壱分 銀三匁
二口
合金四百三拾両 銀弐匁六分五厘・・・明治元年と3年分を合わせた未払い分
右者去ル明治元辰年北越御戦争之節御賄
幷一昨午年中野県村々騒擾事件ニ付
御賄所取調奉書上候間、出格之
御情ヲ以御下金被成下置候様、乍恐此段奉願上候、以上
明治五壬申年四月九日 福島村
名主 華井定之助
組頭 横田利右衛門
同断 丸山忠右衛門 印
百姓代 大峡治郎右衛門
同断 丸山忠兵衛
長野県
御役所
【解説】
冒頭の官軍岩村精一郎には99賄(99食分)、やはり官軍の尾州(尾張藩)の一隊には406賄、松代藩にいたっては6,790食分の賄いを提供しました。
この準備はてんてこ舞いであったと思われます。福島宿の宿を挙げての接待でした。
にもかかわらず、明治5年になっても未払い分が支払われず、明治元年分の賄い金の半分近くが未払として残されていました。明治3年分を合わせると430両余(1両6万円として換算すると2,580万円)にも上っていたのでした。宿駅の存亡にもかかわる重大な問題でした。
この間、明治4年には廃藩置県によって松代藩はなくなってしまうという不安定な社会状況の下で、福島宿を抱える福島村民には頭のいたい事でした。
※岩村精一郎(高俊)
土佐藩士。戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。維新後、佐賀県権令、内務省の大書記官、石川、愛知、福岡、広島の県令や知事を歴任、明治25年貴族院議員
もんじょ紹介№18
「和宮の通行について」(境文雄家文書から)
今回も和宮の下向に関する文書をご紹介します。前回は和宮降嫁にあたり中山道から遠い村々にも助郷が命ぜられ、沼目村では助郷の免除を願い出た文書をご紹介しました。今回は境文雄家文書から助郷として宿場の手伝いにあたり要請された人馬の数や、注意事項に関する文書をご紹介します。
史料にみられる「和宮様」は、孝明天皇の妹で江戸時代末期の公武合体運動に伴う降嫁問題で、文久二年(1862)14代将軍徳川家茂に嫁した方です。
和宮が江戸へ下るとき、中山道を通過したため沿道の宿場及び付近の村々は大きな負担を負うことになりました。
もともと街道の宿場には常備の人馬が用意されているものですが、この時は大変な人数が動員されたので、普段用意されている助郷だけでは到底間に合わなくなったのです。
行列の人員は 京方 1万人、 江戸方 1万5千人 に加え各藩よりの警衛武士及び遠方から動員された人足で8万人ともいわれています。
村にとっては大変な負担でした。
【長窪人足勤覚帳】
【読下し文】
小河原村
この度和宮様、ご下向遊ばさせられ候に付き私共村の当分助郷仰せ渡され人馬お継立ての義お泊りよりお泊りまで通し人馬のつもり、道中お奉行所様より仰せ付けられ、承知畏み奉り候。和田宿ご旅館同宿より望月宿まで四ケ宿合い宿お継立て仕つるべき旨承知仕り候。
一 勤め人馬札揚げの義は、望月宿にて揚札会所立置き候間、同所差出し申し上げるべき候。揚会所出役の者、一宿より出役人一人定め、当分助郷惣代二人、宿ヘ罷り出、其の外村切出役の者、決して無用
一 残り人馬揚札の義は、長窪宿会所にて村一限り人別相改め揚札致し、双方之の札を以って触出し、元帳へ引合不足の分は途中にて逃去り人馬等これ有り相改め不足の分不参と致し、お通輿(つうよ)相済み候までお向々江仰せ立ちてられ糺し、お願いなさるべき旨承知仕り候
一 村々目印村名記し御幟一本、高張一勺、弓張提燈・小田原提燈人馬高に応じ一村限リ持参仕るべく候
一 人馬継方小頭人足十五人に一人づつの積り差出し、割込引受お宿へ相詰め、ご出立ご間欠(かんけつ)等之れなき様、人馬召し連れ夫々お荷物受取り、お継立仕り八幡宿お泊リ所差し添え罷り越し申すべく候。お昼所ご小休所の義は勿論途中にて逃げ去り候儀ならびに慮外(りょがい)・我侭・麁語(そご)の義等いささかもこれなきよう仕るべく候
一 人足小屋和田宿へ取り立て候よう其向々江ご沙汰の趣仰せ聞かれ候に付、和田宿へ罷り出で早ゝ小屋掛け仕るべく候
一 人足一人に付き菰(こも)一枚ずつ馬士の義も同断。薪少々ずつ用意致し罷り出でるべく候
一 喰事ならびに湯茶一村限り用意致すべく候。但しお手充(てもと)合いお下げござそうらはば、甲乙なくお割合下さるはず
一 沓(くつ)草鞋・馬飼料等手厚く用意致すべくはず
一 人馬お触当り次第、長窪宿へ遅れなく参り至り着き村々より名前書き差し出し候、改めを請けお差図の節、和田長窪へ相詰めるべく候。人馬負い数ならびに日限・刻限追って人馬触お差出し下され候はず
一 宿加籠(かご)に罷り越し候人足、右加籠持ち蒲団(ふとん)馬士持参留覆(とめおおい)・ござ・桐油蒲団八幡宿右改め会所へ相渡し申すべく候。万一紛失致し候はば其宿より代料差出させ申すべく候
一 女馬決して差出し申すまじき旨仰せ聞かされ承り仕り候
一 お荷物八幡宿へ相渡し候上は人馬共引取り方の義、追って仰せ付けられるべく承知仕り候
一 途中にて長たずな(手綱)致さず様、急度(きっと)申付くべき候
一 途中無打ハ勿論、人足馬士共に冠(かぶ)り物呼きせる其の外慮外(りょがい)の儀、仕らず様急度申しつくべく候
一 人足馬士共宿にて博奕(ばくえき)等仕らず様、厳重に申し付けられ、尤も火の元の儀は大切に仕るべく候
一 右の通り仰せ聞かされ、一同承知仕り候。小前の者へ急度夫々申付くべき候。之に依り連印請書差出し申し候所、件の如し。
文久元酉年
十月
中山道
人足割賦 長久保宿
高井郡川田村始
覚
一 人足62人 馬6疋 川(河)田村
一 人足15人 馬5疋 東川田村
一 人足15人 馬12疋 保科村(人足115人の誤りと思われる)
一 人足35人 馬4疋(人) 小出村
一 人足20人 馬2疋 牛嶋村
一 人足59人 馬6疋 福嶋村
一 人足65人 馬7疋 八町村
一 人足11人 馬1疋 仙仁村
一 人足76人 馬8疋 仁禮村
一 人足136人 馬14疋 小河原村
一 人足11人 馬1疋 相之嶋村
一 人足9人 馬1疋 小布施村
一 人足64人 馬6疋 大熊村
一 人足111人 馬12疋 佐野村
一 人足38人 馬4疋 湯田中村
右 来る 11月4日5日6日7日勤
和宮様
【説明】
文久元年(1861)10月26日、中山道の長久保宿から松代藩内高井郡の村々に応援を要請してきたものです。助郷にあたっての注意事項と、応援の人馬の数を示し、来る11月4~7日に出してお勤めしてほしいと依頼してきました。
【差上げ申す御請け一札の事】
【読下し文(抜粋)】
差し上げ申す仰せ請け一札の事
和宮様 御下向に付、近々京都表ご発輿(はつよ)に付き、ついてはお旅中は村毎出入口々番小屋取り建て、昼夜油断なく厳重に張り番、刻限時半とも拍子木を打ちあい廻り、火の用心あい慎しみ候様心付け、且少しも怪しき風体の者往来いたし候はば差押え、承糺し其の次第早々訴え出るべし。其の外、宮又は川辺の渡小屋には岩屋等と足を止め乞食・野非人体の者穿鑿(せんさく)を遂げ子細これなき分は早々手遠くのご領分より追払い何か怪敷・・・
「もんじょ紹介」は1部100円で販売しています。
販売中の「もんじょ紹介」は以下のページをご覧ください、(須坂市ホームページ)
https://www.city.suzaka.nagano.jp/contents/item.php?id=60a4bdba846b1#04
もんじょ紹介№12
「村訳書上帳」(沼目町区有文書から)
幕府が推し進めた公武合体により、文久元(1861)年、孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王が第14代将軍徳川家茂の許へ降嫁しました。
出発は文久元(1861)年旧暦の10月20日、当時16歳の和宮を乗せた輿は一路、江戸に向かって京を出発し、中山道を通り江戸到着は11月15日で24泊25日の長旅でした。
行列は千数百人の人々を引き連れ、道中、京側から1万人、江戸幕府側から1万6千人が加わりました。その他に持参した品物を運搬する人足を入れると、3万人余りに膨らんだといわれています。
これらの対応を宿場だけでは対応できるはずもなく、中山道から遠く離れた沼目村にも助郷が課されました。
※助郷とは(デジタル大辞泉)
江戸時代、宿駅常備の人馬が不足する場合、その補充のために宿駅近隣の村々に課された夫役。また、それを課された郷村。定助郷・代助郷などがある。
【読下し文】
村方書上帳
堀長門守領分
信州高井郡沼目村
一農業ばかりにて男女商売一切ござ無くそうろう
一作物の外産物は一切ござ無くそうろう
一当村東南の方は、上州山境より押出す市川と唱え候荒れ川、流末は百々川と申し伝え候、川除け土堤七百間余、右の土堤旱魃のみぎり上州山境辺、夕立多く致し候節は、一時に押出し、旱魃の中に地所村中とも水押し流れ、床に水揚げ候事は、時を定めず右様の場所の土堤、折々切れ所に相成りこの繕い普請
此人足七百人余 年々相懸り申し候
此代銀 壱貫四百匁
一東北の方は、字八木沢と唱え候山川、少々の出水にて年々当村方へ押し破り、普請人足
此人足三百人ずつ 年々相懸り申し候
代銀 六百匁
一田畑用水引き普請幷土井繕い
此れ人足三百八十人 年々相懸り申し候
此代銀 七百六十匁
一去る弘化度、地震満水にて悪土路押し入り、年々作毛不熟仕り一同難渋仕り候
右のとおり取調べ書上げ奉り候、以上
(中略)
文久二戌年十月 沼目村名主代組頭 健助
組頭 勝右衛門
後藤忠一郎様
森 惣藏様
【説明】
この資料は文久2年10月、沼目村にかかってきた「助郷」の負担を幕府の役人に免除して欲しいと嘆願しているものです。
理由として
①暴れ川市川(百々川)によって、土提が毎年のように崩され、その繕いのために多くの人足と費用を使っている。
②八木沢川の出水にも毎年のように被害を受けて、同じく多くの人足と費用を使っている。
③田へ引く用水路の普請や繕いにも費用を使っている。
④15年前の弘化4年の大地震(善光寺地震)で受けた被害からいまだに復興できず、作物の不熟の状態が続いている。
以上の理由で、村は大変困窮している。故に「助郷」の負担は免除してほしいと願い出ているわけです。
15年前の善光寺地震の傷がまだ尾を引いているのがわかります。善光寺地震については、沼目村の富沢元右衛門という人が克明な記録を書き残しています。「百々川堤切れ、高梨・五閑・八重森・沼目・小島一面に水入り、深さ7,8尺より一丈位まで、この小河原村江岸寺前かけ下まで相湛る」というように、千曲川沿岸の村々は水が引いても泥でおおわれてしまいました。それが回復するのに15年以上かかっているわけです。
幕末の頃も沼江村が置かれている状況がよくわかります。
このころの沼目村は戸数 60戸、全戸が農業、5人組は11組、馬3疋、村高428石2斗8升6合5勺でした。
江戸時代の農村規模としては平均的な規模の農村でした。
第2回歴史文化講演会
「須坂町の変遷」 -旧須坂藩館・常盤町を中心に-
地域史等研究の振興と地域史料活用の推進を図るため、地域の歴史愛好家の方による発表の場と懇談の場を「講演会」として開催しています。
第2回となる今回は、長年にわたり地域の歴史などを調べ・学んでいる3人を講師に、町の変遷についてシンポジウム形式で開催します。
今回焦点を当てる常盤町は、版籍奉還後も須坂館跡地を中心に各種官公庁が置かれ、行政の中心地でした。どのような変遷を経て現在の姿に至ったのか、講師間の意見交換や参加者の皆さんからの知見や質疑応答により、参加型の講演会とする予定です。
1 期日:10月31日(火) 午後1時30分~2時30分(予定)
2 講師:北島袈裟則氏、河野精一氏、山下徹氏
3 会場:旧上高井郡役所(1階市民交流室)
4 主催:文化スポーツ課、須坂市文書館、須坂市立博物館、旧上高井郡役所
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