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2023/05/25

もんじょ紹介展示のお知らせ

14:11:44, カテゴリ:  

須坂市文書館 もんじょ紹介展示のお知らせ
村長が遺した写真 -明治・大正・昭和の日滝村点描-
    
会期:2023年5月22日(月)~6月30日(金)
会場:須坂市文書館展示室(旧上高井郡役所内)
開館:月~金曜日(平日) 9:00~17:00
※展覧無料

松澤角太郎は、明治4年相森町に蚕種製造・米穀商を営む松澤辰弥の長男として生まれました。明治24年近衛第3連隊に入隊し、27年日清戦争に従軍。その後、29年に青年修養機関である「相森区相盟会」を創設し会長に就任しました。同会は長野県下初の模範青年会として表彰も受けるなど、角太郎を中心に地域自治の中核として活発な活動を続けました。30年上高井郡兵事主任、33年郡書記、37年日露戦争により再招集され出征、特務曹長に任官しています。明治末年から昭和初期にかけて日滝村軍人分会長、上高井郡在郷軍人分会副長に就任する一方、銀行員として小布施銀行支店長なども務めています。村政にも深く関わり、大正11年日滝村村会議員、のち2期8年にわたり村長を務め、村の発展に大きく寄与しました。

松澤角太郎家文書は、角太郎氏の曾孫にあたる松澤正記氏が所蔵していた明治中期から大正・昭和初期にかけての文書群です。①写真、②書籍・銀行営業報告書外、③軸・雑件に大別でき、総数81点を数えます。中でも写真資料は重要なコレクションであり日露戦役紀念溜池竣工式、日瀧尋常小学校開校、町村制施行30周年・日滝村独立30周年紀念式、須坂町合併記念区民集合写真、上高井郡消防組連合大巡視などは貴重な写真が多数含まれています

展示史料
1 日瀧村日露戦役紀念溜池之圖(明治39年)
2 紀念溜池竣工式(明治39年)
3 谷脇街道百々川橋改築竣工検査(明治40年)
4 日瀧学校全景(式典風景)(明治11年頃)
5 日瀧尋常高等学校(明治34~41年)
6 日瀧尋常小学校開校式(明治43年)
7 町村制施行三十周年、日瀧村独立三十周年(日瀧尋常小学校校庭にて)(大正9年)
8 卒業記念写真(日瀧尋常小学校)(大正2年)
9 同              (大正12年)
10 日支事変出征兵凱旋記念撮影(昭和7年)
11 上高井桑苗圃(長野県立農事試験場松本分場所属)(明治42年)
12 相杜神社上棟式(明治42年)
13 相森婦人会春季総会(相杜神社本殿前にて)(昭和8年)
14 上高井消防大巡検記念(相杜神社本殿前にて)(昭和10年)
15 須坂町合併記念(相杜神社本殿前にて)(昭和11年)
16 上高井郡軍人慰労会(棲鳳館にて)(明治39年)
17 上高井郡消防組大巡検(須坂小学校にて)(明治41年)8
18 相盟会四十周年記念(青年練成会)(昭和11年)
19 農事試験第五報冬作之部(書類、11と共に)(明治33年)
20 桑樹試験成績第三報(書類、11と共に)(明治45年)
21 優良繭奨励品評会規則(印刷物、11と共に)(年次不詳)
22 日瀧村全図(西方成人製作・巻物)(大正13年)

2023/05/24

[いつから「臥竜公園」?

13:05:00, カテゴリ:  

今回は「もんじょ紹介」で取り上げた文書ではなく、旧須坂町が作成した文書を紹介します。
さて、「臥竜公園」という名称ですが、これが定まったのはいつなのでしょうか。
臥竜公園の整備などについては2011年に発刊の「臥竜公園80年のあゆみ」にまとめられていますが、公園の呼称については本田静六博士による「須坂町公園設計」では「臥竜山公園」とされており、「臥竜公園」となった経緯については不明でした。しかし、文書館に移管された旧須坂町の町会関係文書に記録が残されていましたので、須坂町における公園整備計画の流れとともにご紹介します。

1 須坂町公園地設定
大正14年5月29日町会議決
この時に公園とされたのは「芝宮公園」と「十三塚公園(六角堂)」でした。
また、同時に「須坂町常設公園委員規定」を定め、公園の管理・整備について検討していくこととなりました。
対象4年町会決議書類1
大正14年町会決議書類2

2 臥竜山の借入れ
大正15年8月6日町会議決
臥龍山を公園地として興国寺から借入れる契約締結について議決します。
また、臥龍山公園施設整備などについて決定します。
大正15年町会決議書類1
大正15年契約書
大正15年町会決議書類2

3 須坂町公園条例制定
昭和6年8月18日町会議決
須坂町公園条例を設定し、須坂町公園は「臥龍公園」と「鎌田山公園」とを併設したものとすると定めました。これは本田博士の「須坂町公園計画」に添ったものです。条例制定により、公園の名称は「臥龍公園」となりました。
なお、条例制定にあたっての提案説明(村松助役)で、「須坂町公園設定以来数年が経過し、龍ヶ池築造と共に管理方法を確立する必要がある。」と説明しています。
昭和6年町会決議書類表紙
昭和6年町会決議書類1
昭和6年公演条例

以上のように「臥竜公園」と正式に決められたのは、昭和6年 月に「須坂町公園条例」が制定されたことによります。なお、「龍」を「竜」と表記するようになったのはいつか判明しませんが、昭和24年に当用漢字字体表が制定され、「龍」は「竜」に字体が変更されたためと考えられます

2023/05/10

山下徹家文書から「桃山紀」

11:26:16, カテゴリ:  

「もんじょ紹介」№6山下徹家文書から「桃山紀」

現在の須坂で「桃」というと千曲川堤外地で多く栽培されており、例年ですと4月中旬には北アルプスの残雪や菜の花と共にピンク色の花が楽しめます。しかし、「桃山紀」に出てくる「桃」は「杏子」のことのようです。種はキョウニン(杏仁)と呼ばれ、生薬として咳止めや痰を抑える効果があり、漢方処方にも用いられています。こうしたことから薬種商として活躍し、藩財政も支えていた山下八右衛門に植栽を命じたのでしょう。
b-88桃山紀

【読み下し文】
桃山は信濃の墨坂侯(堀家)封内(領内)の一つの丘山なり。旧名を「鎌田山」という、天保六年(1835)乙未二月君(藩主)治下の須坂の人雲佳に桃の木の種を使わし命じた。雲佳はこれを慎んで承諾し、草原を開き、これに数千本を翌年三月初めに植え終わる。それより以来、開花の時節には桃花爛漫の姿を墨坂の里より遠近遥かに望める。なお、錦繍を曝す(さらす)に似ている。奇観というべからず。人をして歓び賞えるところである。なお後年繁茂して将に信州の桃花源とならんと。よって「桃山」と名付けた。雲佳氏の開闢の功を賞すべく、いささかその端緒を記し永く世に伝える。雲佳の氏は山下、名は明、字は雲佳、餐霞(さんか)と号す。須坂の町の人なり。もとより余が知る市井の一奇人、奇特の人である。
天保九年戊戌(つちのえいぬ)六月  松斎山田文静謹
B-82 差上申御請書之事

【読み下し文】
鎌田山の御林跡の西北両平、以前須坂町四郎右衛門組の孫太郎はじめ八人の者どもへ下草を下された御場所を御引き上げになり、今般桃を植えこみ手入れ養いとして両平の下草を下さることになりました。
然る上は追手、植え込みはもちろんのこと手入れし、木立になるよう出精し油断なく致すべき旨を仰せ付けられました。
右の通り仰せ付けられ有難き幸せと畏れいっている次第です。
依ってお請けの一札を差し上げます。
須坂四郎右衛門組
八右衛門 印
天保9年(1838)戌年閏4月15日
御奉行所
前書、八右衛門へ申渡された趣きを私共も承知しました。奥印して差し上げます。
名主 牧小四郎
同断 彦太夫 印
組頭 吉兵衛 印
組合 新兵衛 印
親類 源蔵 印

【解説】
「桃山紀」は、天保期(1830~1843)に鎌田山に桃の木千本ほどが植えられ「桃山」と名付けられたことが記されている。爛漫の季節にははるか遠近の村々から望め、後年には信州の桃源郷にならん。とも述べています。
この植栽は山下家7代茂明が須坂藩第11代藩主堀直格の命により行ったものです。その功績をたたえ親交のあった墨客の山田松斎(中野町江部)が揮ごうした掛け軸です。山下家には桃山紀の関係文書が6点ほど確認されています。当時「桃」というと杏仁(きょうにん)が薬として尊ばれたことから杏子の樹のことでした。
鎌田山の御林跡の北西の草地にアンズ苗木829本を横幅9尺(約3メートル)、堅2間(約3.6メートル)宛で植えたとありまが、場所の特定はできていません。鎌田山の「西方出先より始め」ともあり、旧富士通側の斜面と思われますが、耕土が浅いので疑問が残ります。坂田の和合地籍かもしれませんが、遥か遠近の村からは望み難いため、これも疑問が残るところです。

※植栽場所については長野県史近世資料編第八巻(二)北信地方615に「天保15年10月陶器御窯場用地絵図」が掲載されており、そこに「桃山」の記載が見れます。

2023/04/19

須坂における自由民権運動のはじまり

10:49:56, カテゴリ:  

もんじょ紹介№1 中澤吉四郎家文書から
「須坂における自由民権運動のはじまり」

今年は統一地方選挙の年にあたり4月9日に投票が行われた各地の選挙では、軒並み前回よりも投票率が下がる結果となってしまいました。また、無帳票となる自治体も多く見受けられました。
平成27年(2015)の改正により18歳以上の国民に選挙権がありますが、日本で初めて選挙が行われた明治23年(1890)は国民の約1%にしか選挙権がなかったようです。これも、明治初期からの自由民権運動により実現したものですが、国会開設までには政府による様々な弾圧があり、そのうちの一つとして明治13年(1880)4月5日に「集会条例」が公布されました。集会条例は、政治集会と政治結社を取り締まることを目的とし、政治集会と政治結社が「国安ニ妨害アリト認ムル」場合は、これを認めないこと、陸海軍人・警官・学生・生徒の集会傍聴と結社加入の禁止、屋外集会の禁止、警官が集会に臨席し解散を命じ得ることなどを定めました。
今回紹介する文書は、この条例を受け警察に提出された演説会開催の届け出です。
演説会届1

演説会届2

演説会届3

(書下し文)
明治13年8月24日
演説会御届
上高井郡須坂町 平民 会主 清水為助

御届書
本月27日午前10時より2時まで須坂町浄念寺において演説会
開設に付き演舌者姓名及び該論相添え此の段お届け申し上げ候 以上
明治13年8月24日
上高井郡須坂町 平民 会主 清水為助
戸長 中澤吉四郎

長野県警察署御中
 書面の趣聞き置き候こと
明治13年8月24日

演舌者姓名及び論題
東京府神田美土代町1番地寄留
兵庫県 士族 青木匡
一 府県会権限
一 誰が国会尚早しという
東筑摩郡北深志町483番地
長野県士族 川口萬二郎
一 政治上の思想
一 貧富懸隔論
右のとおり御座候 以上

明治13年8月
 右会主 清水為助□印

※演舌者青木匡は長野日日新聞の主幹、川口萬二(次)郎は同社社員

回状1

回状2

回状
明日26日浄念寺において
主唱者諸君の初度
の集会あい開き候間
御足労ながら午後1時より
ご貢(光)臨あいなりたく、此の段
ご通知申し上げ候也
8月25日
中邨(村)三折
板倉信哉
小田切豊太郎君
小田切辰之助君
小田切新蔵君
山下八右衛門君

中澤吉四郎君
清州勝祥君
青木甚九郎君
遠藤藤次郎君
牧新七君
牧茂助君

※下線付けは回覧済の印。中澤吉四郎留の文書
※中村三折(春木町)、板倉信哉(太子町)は共に医師で政治活動家。小田切豊太郎は後の衆議院議員小田切磐太郎の父。その他すべて後に須坂の行政や製糸業等に関わった町の有力者。

2023/04/05

櫻樹植栽

16:37:27, カテゴリ:  

もんじょ紹介№8 村山町区有文書から
「櫻樹植栽」

今年の桜の開花は全国的に観測史上最速の状況で、臥竜公園の桜も3月29日と、例年より約2週間ほど早い開花となりました。須坂の桜名所・名木というと、須坂市商業観光課と須坂市観光協会が作成する「さくらMAP」には36か所・本が紹介されています。
(さくらmap)
https://www.city.suzaka.nagano.jp/contents/item.php?id=59645bcfe43e5
ここで紹介されている「村山権現さんのソメイヨシノ」は村山橋からもよく見え、開花時期には村山橋、長野電鉄の電車北アルプスの雪形などと相まって絶好のお花見スポットとなっています。
権現さんのさくら

この桜は、千曲川及び百々川堤防改修、村山橋の完成に沸く地域の人たちが昭和天皇即位記念もかねて植樹したものですが、村山町区有文書から、植栽当時の人々の思いを感じられる文書を紹介します。

共鳴会員名簿表紙

保勝会設立趣意書

【読み下し文】
村山保勝会設立趣意書
西に仏都の長野あり。東に製糸工業の須坂あり。遥に四圍(しい)は嵯峨(さが)たる山また山の四季の彩、さしも名に負う千曲の清流を眼下に、東洋一の稱(たたえ)ある村山橋に佇みて、花の朝、月の夕を偲びなば誰か快哉を呼ばざるべき。
この雄大清楚たる山紫水明の佳境を愛ぜる吾人は啻(ただ)にこれを郷土の誇りとして蔵するのみならず、広く天下に紹介し、高尚闊達なる人生の営養に供せむは、又以って吾人の任務たり。宝庫開扉の発露たらずんばあらず。
されど未だ雅客の杖を曳くに足る文明的施設としては夏季長野電鉄主催に係る納涼会を除いて他に何物も無きを遺憾とす。因りて今回村山保勝会を設立し、核先輩有志の指導後援を相まって、この天恵の郷土風光を宣揚助長し、時代順応の設備と遊覧客の便を計り、組織的風景を利用開発して、もって天下にこれを紹介せむことを欲す。

【昭和3年4月3日  ご大典記念事業  櫻樹栽植誌  村山保勝会】
「櫻樹栽植、村山保勝会設立の趣旨」
植栽日誌1

植栽日誌2

【読み下し文】
須坂長野間の交通さえも馬車人力車をもって最高の機関とし、後に自動車の乗り合いとはなりたるも全く水害の本場、堤の包囲を受けて農蚕に営々たりし僻村の我が村山も百々川改修工事は大正12年に始まり大正14年5月に完成、西千曲川は内務省直属の大改修によりて大正9年秋に始まり大正12年3月、全く住宅に洪水氾乱(氾濫)の憂いなきのみか、大正15年6月28日長野電鉄の開通より長野須坂間は30分ごとの発車、これに伴い全国一の称ある村山橋の架設これ連絡県道の改良工事完成は昭和2年8月24日に渡橋式をもって始まる。同年12県道谷脇街道の切り下げ工事をもって福音3間の理想道となる等交通の利便はほとんど完備の状態となる。
是より先、大正15年8月は千曲の清流を眼のあたりにして長野電鉄主催に係り村山青年会の応援をもって納涼会を催され、日々の遊覧数千をもって数えらる仕掛け花火、長野須坂の芸妓手踊り等実に開闢(かいびゃく)以来の盛況を極め、翌年工事のためわずか3日間の納涼に止まりしも僻村閑村の村山は一期にして天下の勝地たるの資格を得るに至れり。

【解説】
村山区では大正9年に始まった千曲川の内務省堤防工事、12年の百々川改修工事、そして15年の村山鉄橋の電車開通、昭和2年の同鉄橋渡り初めと、村にとっては画期的な大事業が続いた。村の人々の目には各制の進歩と映ったことだろう。大飛躍のチャンス到来である。
加えて迎えた昭和3年の昭和天皇即位の大典である。千曲の清流と日本一の村山橋、そして櫻の記念植樹をもって、僻村村山の付近一帯を理想の一大遊園地帯たらしめようと立ち上がったのが村山保勝会と村山青年会であった。時は昭和3年、村山保勝会と青年会の熱気が伝わってくる。
「櫻樹栽植誌」の昭和3年4月3日は、大由野桜の植樹完了日。4年後の7円ごろよりポツポツ咲き始め10年後には盛りとなるも、昭和17年、戦時の薪炭用として三分の一が刈られ、19年には残りの過半が刈られた。

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