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2026/02/12

文書館だより「文政期の福島村」

09:18:34, カテゴリ:  

文政期の福島村(もんじょ紹介№4堀内秀雄家文書から)

1818年から1829年にかけての文政年間と、1804年から1817年の文化年間における文化活動は「化政文化」と呼ばれ、昨年の大河ドラマ「べらぼう」に描かれたように町人文化が隆盛を極めた時期でした。
しかし、貨幣経済の発展により町人が力をつける一方で、幕府・藩の財政悪化により、幕藩体制のほころびがみられるようになってきました。
また、商品経済の拡大と貨幣経済の浸透により、農村でも階層化が進展し、困窮した農民の離農、都市圏への流入が進み、帰郷令などにより対処しようとしましたが、効果が出ませんでした。
このような無宿人などの増加は社会の不安定化の要因となり、幕府や藩は頻繁に「御触書」を出し、統制を図ろうとしました。

今回ご紹介する文書は、松代藩から福島村に出された「御法度」で、百姓がしてはならない内容としています。
例えば
「他所奉公の儀前々より厳重に差し留め置き候」
…他領に行って奉公することは前々から厳しく禁じている。
「賭の勝負事が何の義によらず御法度」
 …賭博は禁止
「無宿・悪党共おびただしく村々を徘徊…召し捕らえさせ」
 …住所不定の者、悪事を働くものが村に来たら捕まえ
などがあります。

これら御法度が出されたということは、文政期の福島村では、街道筋を渡り歩く「無宿・悪党」外多くの人々が、様々な情報を持ち込むに従い、博奕や賭け事が流行っていたと考えられます。
村内から松代や江戸へ他所暴行が増大するなど村内を混乱させ、幕府や藩から「御法度」も威力を失いかけていたものと思われます。
なお、これらの文書は、五人組ごとに一連の文書を福島村役元に宛てて出しています。
松代藩が発した文書と、それに対し確かに承りましたとする村が出した請書について一部省略してご紹介します。

【017-B-64】
issatu1

一札の事
他所へ奉公の義前々より厳重差し留め
置き候処、近年猥りに相成り、他所奉公
稼ぎに罷り出で候者多くこれ有る段相聞き、
甚だ以て心得違いの事に候。以来人詰改め
の節、事により爪印など申し付け儀も
これ有るべく候。且つ賭けの勝負事は何儀に依らず
御法度の義、銘々承知の事にこれ有る処
是又近年猥りに相成り多くの内には
御政道相ゆるみ候などと心得違いの者
もこれ有るや、去る秋以来別けて賭奕いたし
候追々相聞き、甚だ心得違いの事に候
右の趣相背くにおいては、当人は申すに及ばず
組合、三役人迄急度申し附くべく條かねて
其の旨存ずべき
前書き仰せ渡されの趣、村方五人組切明細に
吟味仕り、右等の儀御座無きよう仕るべく候
自然心得違いの者これ有り隠し置き、後日
脇々より達し、お聴きに達し候はば如何様の
曲事にも仰付らるべく。後日のため
連印差上げ仕り申し候、以上。 
 文政五年午閏正月
沖八㊞外9名
 御役元

【017-B-76】
issatu2

一札之事
一 御領内の者高野山参詣の節蓮華
定院宿坊為すべき外へは無用の事に候。右之旨
延享二丑年相達し置き候処、後年により心得
違いの者もこれ有るやに相聞こえ候。向後蓮華
定院の外止宿致す間違い間、漏らさざる様触れ等置くべきもの也
右のとおり去る寅年申し渡し置き候処、大勢の中には
相守らざる者ままこれ有る趣相こえ、当人は勿論
役人共とても申し渡し、不行届き筋に相当り不埒の
事に候。向後急度相守り候様、厳しく申渡し置くべきもの也。
二月
近頃華合わせと名付け子供慰めに相用い候品を以て博奕
同様賭けの勝負専らいたし候哉と相聞こえ、不埒
の事に罷り、い来右躰の義これ有るにおいては
吟味の上急度咎申し付け候間、その旨相
心得べく旨仰せ渡され候間、其の旨存ずべきもの也

一 兼々仰せい出され候通り御郡中村々常々
倹約は勿論の義、婚礼葬式等随分手軽に
取り計らい申すべき事。村に寄婚姻等の節若者
芝戸障子など打ち破り、其の外甚だ狼藉及び儀
これ有るやに相聞こえ不行届き至極の事に候。以来右躰
の義相聞くにおいては穿鑿(せんさく)の上召し捕り厳重の
咎申し付けるべき条、かねてその旨存ずべきもの也。
岡 庄蔵外5名
前文仰せ渡され候趣組合一同若者まで承知仕り、向後
急度相守り申すべく御請け連印一札差上げ申し候、以上。
   文政五午年二月
     与右衛門外8名
     御役元

【017-B-90】
uke

御請
近頃無宿悪党共おびただしく村々を徘徊
致し、農業は勿論諸商売などいたし候
者及び難し儀に候趣お聴き入り候に付、この度
召し捕るため御出役に御座候所、何れも逃げ去り
行え相知れ申さず、これに依りお引き取り後又々
徘徊いたし候者はかり難く候間、村役人
並びに頭立等時々相廻り見当て候わば
容赦なく召し捕り、御役所へ御訴え申上げ
取り締まり方行届き候様仕るべく候。
(中略)
右は村ごと仰せ渡され御座無く候間、最寄り
村々へ申し通すべき旨仰せ渡され、承知畏れ奉り候。
依って御請書差上げ申し候、以上。
前書きのとおり御出役様御廻村向き
おいて厳しく仰せ渡され候趣、此度
御役元にこもごも組切に仰せ渡され一同畏れ奉り
御請けのため一札差上げ申し候、以上
 文政七年申の十二月
   数五郎外2名
 御役元

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2026/01/27

文書館だより「須坂町で行われた御成婚記念事業」

13:25:03, カテゴリ:  

須坂町で行われた御成婚記念事業(須坂町報から)

大正13年(1924年)1月26日に摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)と久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)との御成婚記念事業は、全国各地で行われたようですが、旧須坂町で行われた記念事業について「須坂町報」からご紹介します。

全国のご成婚記念事業としては運動場整備や公会堂建設、公園整備などがみられますが、須坂町では「大運動場」整備を行いました。これは、明治以降日清・日露戦争、第一次世界大戦への参戦などにより、富国強兵政策遂行に沿った人材の育成の必要性などから, 国民体育振興機運が高まっていた時代背景を反映したものと考えられます。

大運動場は
運動場7,831坪25勺(約25,890㎡)
水泳場 1,380坪(約4,560㎡)
といった広大な施設を23,893円で整備を行いました。
大運動場の整備にあたっては、青年会、須坂小学校児童・教職員も労力奉仕を行いました。(須坂小学校百年史より)
大運動場は現在須坂小学校及び常盤中学校グラウンドとして使用されています。水泳場は現在の市民体育館の場所にありました。

【御成婚記念事業決定】
undoujyoukettei

大正14年2月25日発行の町報で、御成婚記念事業は大運動場整備に決定したことを伝えています。決定理由として「本町常盤部小学校運動場は児童の増加に伴い非常に狭隘となり、従って児童の教養上・体育上に及ぼす悪影響少なからざるものありしため」と、「近年小学校のみならず、一般に体育奨励に努めつつあり」の2点を挙げており、整備場所については「町的大運動たるとともに、小学校に接続し居るところなれば、小学校の運動場にも兼用し得ることとなり一挙両得の方法」であるとしています。

【記念運動場の開場に就いて】
undoujyounituite

11月3日の町報で須坂小学校長山口菊十郎が「記念運動場の開場に就いて」と題し寄稿していますが、大運動場整備の目的を「須坂町民の体育を進めるため及び精神鍛錬のため」とし、その理由を上高井郡内における12歳児の身長は勝るものの、体重は劣るいわゆる「キャシャ」な体つきである。更に大正11年度の徴兵検査における甲種合格の割合は郡内13位、徴兵免除の割合は2位と低迷しているとしています。こうしたことの解消のためには、「修養時代には広々とした場所において自由自在に跳ね回ることの経験を得しめねばならない」としています。

【工事報告概要】
koujihoukoku

大正13年1月19日 4ケ年継続支出により整備することを議決
       3月16日 入札。須坂町酒井健太郎請負
       4月20日 起工式
総工事費等 23,893円

【運動場開場式】
kaijyoushiki

開会式は明治節(明治天皇誕生日)の11月3日に、第一 神事、第二 開場式、第三 水陸競技会と行われ、競技会には県内青年会、学校生徒約300名が参加しました。
陸上競技は100m、400m、1500m、5000m、棒高跳び、走幅跳び、やり投げ、円盤投げが行われ
水上競技として自由形競泳100m、背泳ぎ100mが行われました。

また、須坂町の事業ではありませんでしたが私立須坂図書館が須坂町青年会により須坂小学校常盤部内に設置されました。その後図書館は1939年(昭和14)須坂町に移管され、現在に至っています。
【図書館計画】
toshokankeikaku

大正14年1月1日付町報に掲載された、青年会が立案した図書館整備計画です。三段階にした計画としており、
1 創立計画
〇創立資金 1千円(寄付金、町補助、青年会事業益)
〇設置場所は須坂小学校常盤部一室を借用
2 第二次計画
(1) 図書購入準備のため後援会設立
(2) 読書会の設立
(3) 専任職員の配置
(4) 図書館に関する思想の普及・徹底
3 第三次計画
(1) 町立とする
(2) 図書館の建設

【図書館開館】
toshokankaikan

大正15年3月15日発行の町報で、図書館を3月28日に開館するとしています。

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2026/01/14

文書館だより「米子山山論内済絵図」に見る発見

10:08:52, カテゴリ:  

「米子山山論内済絵図」に見る発見-四阿山信仰(もんじょ紹介№20亀倉町区有文書から)

米子瀑布群は2016年(平成28)10月3日に国の史跡名勝天然記念物に指定され、本年は10周年を迎えます。選定理由として、その景観のほかに文化的・歴史的要素として次のような事項が評価されての指定となっています。
「米子瀑布群,とりわけ権現滝及び不動滝は,近世中期までは信仰の対象として捉えられ,近世後期以降はそこに景勝地としての評価を付加しつつ,現在までその姿を伝える。」

ご紹介する絵図は文化元子年(1804)5月作成絵図の写しで、亀倉町が所蔵しています。
「右はこの度山境論熟談内済仕則論所、境引き相定め絵図面・・・」を昭和25年12月23日に、亀倉惣代玉井永好と米子惣代竹前滋が、「此絵図面は写にて双方所持するものなり」と両人が押印しています。
この絵図で興味を引くのは、米子不動尊奥の院にお堂らしい建物が三つ描かれ、その建物の上部に上から「不動堂」、「四阿里社」、「千手堂」の三堂社が記入されていることです。現在の奥の院は文化7年(1810)の再建とされているので、それ以前の建物と堂社の名称となります。不動堂は不動尊を祀り、唯一現在に引き継がれています。四阿里社は四阿山頂に祀られる白山社の里宮にあたります。千手堂は千手観世音を祀る堂とみられます。四阿里社が明記される図であることで、市川(百々川)の源流米子川の最奥に白山信仰が確かめられた史料で、新発見といえる図面です。

もんじょ紹介の一部を抜粋しています。全文をご覧になりたい方は文書館で閲覧・購入(一部100円)していただけます。

【絵図】
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2025/12/24

用水の汚れに苦しんだ沼目区

10:11:36, カテゴリ:  

用水の汚れに苦しんだ沼目区(もんじょ紹介№12沼目町区有文書から)

北ノ沢用水(米子川の分流)のうち、町用水の流末に位置する日野村沼目区は、水利権を持つこの用水を飲料水と水田用水に利用してきました。

江戸時代にあっては、須坂藩から「用水に塵芥(ちりあくた)を流してはいけない」と厳しく命ぜられていたため支障はなかった。明治時代に入って製糸業が発達してくると、明治20年(1889)に製糸用水を町用水から新たに簡易水道に替えた。それ以来、(須坂町では)生活用水や水田用水として大事に扱われなくなり、町用水が次第に下水道のように見なされ、製糸工場や副産物処理工場から密かに汚水が流され、町民の生活排水ばかりか汚物まで捨てられる状態になってきた。そのため汚れが年を追ってひどくなり、飲料水に使えないだけでなく、水田用水にも用をなさない状態になった。
大正14年11月、日野村長、沼目区長らが陳情書をもってその惨状を須坂町長に訴えた。その中で「右ノ如キ危険ト不安トヲ救フベク、幾多ノ方途ヲ講ジ、或ハ井戸ヲ掘削シ、或ハ他ノ川流ヲ求ムル等、区民必死ノ努力ヲナスト雖モ、未ダ好成績ヲ得ルモノヲ発見セザルナリ」と述べ、もはやここに至っては、須坂町民各位の公徳心の充分なる自覚しか良策は思いつかないと断言している。
その後6年を経過して昭和6年(1931)に種々調査の結果、同村大字塩川地籍に水源地を発見、新たに用水を利用できる目途がついた。しかし、水源地取得、工事等に要する経費約4000円は、沼目区60戸では到底負担できない金額であったので、過半の援助を須坂町に願い出た。当時は世界恐慌下にあって製糸工場の倒産、休業が相次ぐ時であったが、同年1月の須坂町長宛の請願書には「財界稀有ノ不況ニ際シ甚ダ恐入候ヘ共、此悲惨ナル事情ヲご賢察ノ上御援助ヲ賜リタイ」と記されている。
もう一方で、同年4月に町内の製糸業関係の工場にも同趣旨の懇願書が送られ、製糸工場1社、屑糸・蛹油工場5社、他2社から計140円の寄付金が届けられた。

【陳情書】
chinjyousyo1

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chinjyousyo4

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2025/12/10

文書館だより 市民会館建設の要望(公民館だよりから)

15:39:07, カテゴリ:  

市民会館建設の要望(公民館だよりから)

須坂町公民館は昭和22年6月17日に町役場内に開館し、翌年には立町の旧社会会館(現須高医師会館の場所)に移転しました。公民館はじめ様々な市民団体の活動が活発になるにつれ、活動拠点となる市民会館建設要望について「第8号公民館だより(昭和32年12月20日発行)」からご紹介します。
市民会館建設要望に関する経過は
1 公民館活動が活発になるにつれ、施設の狭隘化により活動に支障が生じ、公民館運営審議会で大きな話題となる。
2 そのため、新たな公民館建設に向け「公民館新築準備委員会」を設置して検討を進める中で、公民館、図書館、労働会館、婦人会館、青年会館、医師会事務所を含めた幅広く社会教教育センターとして大市民会館を建設すべきという要望が出され、組織を「須坂市市民会館建設促進委員会」とし、委員長には公民館長の清水弥平が就いた。
3 委員会に資金部会、建設部会、庶務部会を置き、資金部会では市民から1500万円の募金を集めることとした。
と紹介されていますが、実際に募金が行われたのか、いくら集まり、どのように使われたのかは不明です。

終戦後、食糧事情も悪く、国民の生活が大変な中、新学制の実施による小中学校施設の整備や、合併による交通網整理や水道整備などが優先されていたこと。また、昭和34年35年と相続いた台風被害の影響もあり、市民会館が建設されるのは昭和37年(1962)のことでした。しかし、ここには公民館など入ることはなく、昭和39年に市庁舎が現在地に新築移転したことにより、現在生涯学習センターとなっている旧市庁舎を昭和40年に改修して移転することになりました。

【市民会館建設構想図】
kousouuz

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