富岡製糸場に向かった工女たち(もんじょ紹介№7井上町区有文書から)
幕末から明治初年ごろ、我が国の輸出第一位を占めていた生糸が、品質不揃いで一部が粗製乱造だと欧州諸国の評判を落とし、輸出が振るわなくなっていました。
そこで明治政府は、品質の揃った生糸に改良して輸出不振を挽回しようと、従来の座繰り製糸から新式の器械製糸への転換を勧めました。その施策として、国の経費で器械製糸の模範工場を建設し、全国から製糸工女を募集して製糸技術の伝習を図ろうとしました。
そのため、フランスから技師1名と教官役の製糸工女4名を雇い入れ、明治5年(1872)7月に群馬県富岡に官営富岡製糸場を建設し、10月の操業開始に向けて府県を通して同年3月に全国から製糸工女400人を募集しました。
しかし、各地の戸長(現在の町村長)などが村内を巡って応募を勧めましたが、尻込みする者が多数でした。それは「集められた工女たちは、雇われ外国人に生血を吸い取られる」といううわさが世間に広まったことも原因の一つに挙げられました。日常ワインをたしなむフランス人の慣わしが誤解されたものです。
そこで政府は二か月後に改めて大蔵省名で詳しい告論文(誤りを諭す文)を示し、外国人に対する無責任な妄言(偽り事)であると否定し、再度募集勧告をしましたが応募した工女は少ないものでした。
いくら政府が否定しても、外国人に対する根も葉もないうわさが、まことしやかな話として広まっていたことがうかがえます。
翌年(1873)3月、須高から14人が富岡製糸工場に入場しました。期間は2か月から7か月、また年齢も15歳から20歳と様々でした。
【026-AⅡ-155御公用留帳】




壬申五月
大蔵省
告論文
日本の産物にて交易の大なりて金高の上るとは
生糸に過るものなし。外国人もこれを貴びお国中の
利潤となる事を以て第一とす。然るにお国の生糸
かくのごとく上品なるは土地の宜しき布故にて、其の製法に
至りては只人々の覚えし手心より出来せるものにて
其の法いまだ精しからず。近年交易の繁昌するより
粗悪の品次第におおく、其上御国中一様ならず
品柄宜しからざれば、外国人ものを貴ばずして
値段も次第に下落し、交易の利分も大いに減少す。
此の損失は唯糸を製するもののみにあらず、自然総
体不融通となるなり。然るときは御国産第一の
品格を落とし、其の害全国に及び貧困の基を生ず。
なげきべき事ならずや。右に付き
朝廷万民進められんとし思召され、此の貧困の基を去りて
家に富饒の利を得せめんとの御趣意を以て上州富岡へ
多分の入費をかけ盛大なる生糸場を御建て
遊ばされ、フランス国より生糸製造師と男女の職人数
名を雇い入れ、当夏より無類様好なる生糸の製造
を御始め遊ばされ、御国中製糸に志ある者へは士民論せず
熟覧を許さる。此の製糸場において女職人400人余り雇い
入れ相成り、製糸の法を学ばせらるべきに、右女は外国人に生血を
取るの事候などと盲言を唱え、人をおどし候もこれ有る
より、もっての外の事に候。右女人は製糸の術伝習の上は
御国内製糸の教師に成られ度御意に候得ば
決して疑念なく伝習のため、さし出でべく申し候。妄言に惑い
候て御趣意に障り候様義これなきよう致すべき。此の製糸場に
かくまで入費をかけ、盛んに開かせられ候御趣意は前文ごとく
御国生糸の思い万国に勝れ、永遠の御国益と相成り
全国の民をして皆富饒の利にうるおわせんために
て、只上より御世話成られ候。決して下民の利に上より
大集候様の訳にこれ無く御場所悉く皆成就製俵
の術習熟に過ぎ候て、民間これ望む者へ御払い下げも
仰せ付けられたき御趣意に候間、郡村製糸の者は
申すに及ばず四方の人民厚く御趣意を弁い、製糸の術と習
に心を入れ精好の品多分出来候様これ有り度候也
壬申五月
勧農寮
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