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		<title>須坂市文書館だより</title>
		<link>https://blog.suzaka.jp/bunshokan</link>
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			<title>文書館だより「京都・大阪の宿屋引き札」</title>
			<link>https://blog.suzaka.jp/bunshokan/2026/03/25/p44368</link>
			<pubDate>Wed, 25 Mar 2026 08:20:47 +0000</pubDate>
						<category domain="main"></category>			<guid isPermaLink="false">44368@https://blog.suzaka.jp</guid>
			<description>文書館だより
もんじょ紹介№23吉池一彦家文書から「京都・大阪の宿屋引き札」

引札とは、現在のチラシや折込み広告、手配りのビラにあたる一般的広告物でした。
引札の配布方法には、特定のお得意に限る、町内各戸へ、通行人に配るなど、商売の業種や店の規模によってさまざまな形態がありました。
同家文書には薬屋、呉服屋、宿屋などの引札が13点残されています。いずれも木版刷りですが、制作時期は不明です。
同家は松代領小河原村で名主など村役人を務めていましたが、商取引に関する文書も多く残されていることから、京都、大阪に出かけた際に渡されたものと考えられます。今回は京都、大阪の宿屋３軒の引札をご紹介します。

【あこや安之助】


やねに　此の印有り
大坂宿日本はし北つめにて
あこ屋安之助と御たずね下さるべく候
京ふしみへのり合い
早船いだし申し候

【びぜんや藤五郎】


京のやど三条大はし東へ一丁目
びぜんや藤五郎とおたずね下され候らへば
まぎれ御座無く候
屋根に扇子の印あり　　びぜんや藤五郎

【河内屋四郎兵衛】


かわちやかぞく御座候間ふんどうや四郎兵衛と御たずね下さるべく候
大坂宿長町七丁目かわちや四郎兵衛と
御たずね下さるべく候。屋根にやまがたに
ふんどう印あり
但し天王寺藤井寺道
京都へ早船出し申し候　河内屋四郎兵衛

河内屋四郎兵衛が営む分銅河内屋は、『東海道中膝栗毛（八編上巻）』で弥次郎兵衛と喜多八が大阪滞在時に宿泊する宿です。

◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。
◆古文書等寄贈、寄託のお願い
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。</description>
			<content:encoded><![CDATA[	<p>文書館だより<br />
もんじょ紹介№23吉池一彦家文書から「京都・大阪の宿屋引き札」</p>
	<p>引札とは、現在のチラシや折込み広告、手配りのビラにあたる一般的広告物でした。<br />
引札の配布方法には、特定のお得意に限る、町内各戸へ、通行人に配るなど、商売の業種や店の規模によってさまざまな形態がありました。<br />
同家文書には薬屋、呉服屋、宿屋などの引札が13点残されています。いずれも木版刷りですが、制作時期は不明です。<br />
同家は松代領小河原村で名主など村役人を務めていましたが、商取引に関する文書も多く残されていることから、京都、大阪に出かけた際に渡されたものと考えられます。今回は京都、大阪の宿屋３軒の引札をご紹介します。</p>
	<p>【あこや安之助】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1774426702.jpg" width="219" height="819" alt="ayako" class="img-responsive" /></p>
	<p>やねに　此の印有り<br />
大坂宿日本はし北つめにて<br />
あこ屋安之助と御たずね下さるべく候<br />
京ふしみへのり合い<br />
早船いだし申し候</p>
	<p>【びぜんや藤五郎】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1774426745.jpg" width="190" height="609" alt="bizenya" class="img-responsive" /></p>
	<p>京のやど三条大はし東へ一丁目<br />
びぜんや藤五郎とおたずね下され候らへば<br />
まぎれ御座無く候<br />
屋根に扇子の印あり　　びぜんや藤五郎</p>
	<p>【河内屋四郎兵衛】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1774426784.jpg" width="194" height="608" alt="kawachiya" class="img-responsive" /></p>
	<p>かわちやかぞく御座候間ふんどうや四郎兵衛と御たずね下さるべく候<br />
大坂宿長町七丁目かわちや四郎兵衛と<br />
御たずね下さるべく候。屋根にやまがたに<br />
ふんどう印あり<br />
但し天王寺藤井寺道<br />
京都へ早船出し申し候　河内屋四郎兵衛</p>
	<p>河内屋四郎兵衛が営む分銅河内屋は、『東海道中膝栗毛（八編上巻）』で弥次郎兵衛と喜多八が大阪滞在時に宿泊する宿です。</p>
	<p>◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。<br />
◆古文書等寄贈、寄託のお願い<br />
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。<br />
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。
</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
				<item>
			<title>文書館だより「神社合併御届」</title>
			<link>https://blog.suzaka.jp/bunshokan/2026/03/11/p44339</link>
			<pubDate>Wed, 11 Mar 2026 04:52:49 +0000</pubDate>
						<category domain="main"></category>			<guid isPermaLink="false">44339@https://blog.suzaka.jp</guid>
			<description>神社合併御届（もんじょ紹介№12五閑町区有文書から）

今回ご紹介する文書は、五閑町に残されている文書で、明治３３年に村社五閑神社を村山神社に合祀することを長野県令に届け出たものです。

明治維新において、明治政府は天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を目指し、復古神道を精神的な支柱とし、神道国教化政策を推し進めるために、神仏分離令を明治元年（1868）に発した。これにより、仏教寺院・仏像・仏具などが破壊・破棄される「廃仏毀釈」が行われたことは広く知られていますが、各村にあった神社の統合「神社合祀」も明治初期から行われました。
神社合祀とは、複数の神社が合併し、祭神を合わせて祀って一社になること。狭義には内務省地方局の主導にて実施された地方改良運動の一環として、明治39年（1906）ごろから本格化し、大正6年（1917）ごろに終息した神社整理施策のことを指す。この時期全国で約7万2千社の神社の整理が実施された。明治初期にも神社の統廃合は実施されたが、神社合祀が政府において検討されるようになったのは、明治33年の内務省神社局設置以後の事であり、そのねらいは小規模の村社や無格社を整理統合し、府県社や郷村社に対する神饌幣帛料を共進できるような体制を創出することにあった。
（一部「明治時代史大辞典」より抜粋）
上高井誌によると、須坂地域で合祀が行われたのは、
小坂神社10社、霧原大元神社1社、墨坂神社（芝宮）6社、越智神社3社、天神社（井上）3社、米持神社1社、椚原豊守神社4社、生守神社7社、亀倉神社1社、墨坂神社（八幡）10社、灰野神社9社、坂田神社3社、諏訪社（日野）2社、小河原神社3社、建御名方神社4社、相杜神社1社
の68社にのぼっています。
なお、上高井誌及び上高井郡誌では、村山神社の社名は（日野）諏訪社とされています。

【神社合併御届】


神社合併御届
上高井郡日野村大字五閑
一　五閑神社
右神社の氏子は日野村大字五閑此の戸数15戸の小部落
にして、将来到底維持仕兼ね候に付き今般其村大字村山
河東村山神社へ合社其義、双方協議相整へ候に付、関係
氏子総代連署を以て此の段御届に及び候也
明治３３年７月３１日
上高井郡日野村大字村山
河東村山神社氏子総代　小平磯吉　印
同　　　　　　　　　　　　　　　小平直治　印
同　　　　　　　　　　　　　　　黒岩助右衛門　印
同郡同村大字五閑氏子総代
　羽生田磯右衛門　印
同郡同村大字五閑氏子総代
　羽生田藤之助　印

長野県知事　押川則吉殿

【御届】


御届
上高井郡日野村大字村山
一　河東村山神社
　神職　酒井薫
　年給額20円也　但し神職兼務神社
右今般縣令第３７号により神職給額相
究め候に付き、此の段御届候也
明治３３年７月３１日
上高井郡日野村大字村山河東村山神社
氏子総代　小平磯吉　印
同　　　　　小平直治
同　　　　　黒岩助右衛門　印

◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。
◆古文書等寄贈、寄託のお願い
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。</description>
			<content:encoded><![CDATA[	<p>神社合併御届（もんじょ紹介№12五閑町区有文書から）</p>
	<p>今回ご紹介する文書は、五閑町に残されている文書で、明治３３年に村社五閑神社を村山神社に合祀することを長野県令に届け出たものです。</p>
	<p>明治維新において、明治政府は天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を目指し、復古神道を精神的な支柱とし、神道国教化政策を推し進めるために、神仏分離令を明治元年（1868）に発した。これにより、仏教寺院・仏像・仏具などが破壊・破棄される「廃仏毀釈」が行われたことは広く知られていますが、各村にあった神社の統合「神社合祀」も明治初期から行われました。<br />
神社合祀とは、複数の神社が合併し、祭神を合わせて祀って一社になること。狭義には内務省地方局の主導にて実施された地方改良運動の一環として、明治39年（1906）ごろから本格化し、大正6年（1917）ごろに終息した神社整理施策のことを指す。この時期全国で約7万2千社の神社の整理が実施された。明治初期にも神社の統廃合は実施されたが、神社合祀が政府において検討されるようになったのは、明治33年の内務省神社局設置以後の事であり、そのねらいは小規模の村社や無格社を整理統合し、府県社や郷村社に対する神饌幣帛料を共進できるような体制を創出することにあった。<br />
（一部「明治時代史大辞典」より抜粋）<br />
上高井誌によると、須坂地域で合祀が行われたのは、<br />
小坂神社10社、霧原大元神社1社、墨坂神社（芝宮）6社、越智神社3社、天神社（井上）3社、米持神社1社、椚原豊守神社4社、生守神社7社、亀倉神社1社、墨坂神社（八幡）10社、灰野神社9社、坂田神社3社、諏訪社（日野）2社、小河原神社3社、建御名方神社4社、相杜神社1社<br />
の68社にのぼっています。<br />
なお、上高井誌及び上高井郡誌では、村山神社の社名は（日野）諏訪社とされています。</p>
	<p>【神社合併御届】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1773204637.jpg" width="580" height="461" alt="gappeiotodoke" class="img-responsive" /></p>
	<p>神社合併御届<br />
上高井郡日野村大字五閑<br />
一　五閑神社<br />
右神社の氏子は日野村大字五閑此の戸数15戸の小部落<br />
にして、将来到底維持仕兼ね候に付き今般其村大字村山<br />
河東村山神社へ合社其義、双方協議相整へ候に付、関係<br />
氏子総代連署を以て此の段御届に及び候也<br />
明治３３年７月３１日<br />
上高井郡日野村大字村山<br />
河東村山神社氏子総代　小平磯吉　印<br />
同　　　　　　　　　　　　　　　小平直治　印<br />
同　　　　　　　　　　　　　　　黒岩助右衛門　印<br />
同郡同村大字五閑氏子総代<br />
　羽生田磯右衛門　印<br />
同郡同村大字五閑氏子総代<br />
　羽生田藤之助　印</p>
	<p>長野県知事　押川則吉殿</p>
	<p>【御届】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1773204672.jpg" width="590" height="463" alt="otodoke" class="img-responsive" /></p>
	<p>御届<br />
上高井郡日野村大字村山<br />
一　河東村山神社<br />
　神職　酒井薫<br />
　年給額20円也　但し神職兼務神社<br />
右今般縣令第３７号により神職給額相<br />
究め候に付き、此の段御届候也<br />
明治３３年７月３１日<br />
上高井郡日野村大字村山河東村山神社<br />
氏子総代　小平磯吉　印<br />
同　　　　　小平直治<br />
同　　　　　黒岩助右衛門　印</p>
	<p>◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。<br />
◆古文書等寄贈、寄託のお願い<br />
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。<br />
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。
</p>
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		</item>
				<item>
			<title>文書館だより「富岡製糸場に向かった工女たち」</title>
			<link>https://blog.suzaka.jp/bunshokan/2026/02/25/p44302</link>
			<pubDate>Wed, 25 Feb 2026 02:53:00 +0000</pubDate>
						<category domain="main"></category>			<guid isPermaLink="false">44302@https://blog.suzaka.jp</guid>
			<description>富岡製糸場に向かった工女たち（もんじょ紹介№7井上町区有文書から）

幕末から明治初年ごろ、我が国の輸出第一位を占めていた生糸が、品質不揃いで一部が粗製乱造だと欧州諸国の評判を落とし、輸出が振るわなくなっていました。
そこで明治政府は、品質の揃った生糸に改良して輸出不振を挽回しようと、従来の座繰り製糸から新式の器械製糸への転換を勧めました。その施策として、国の経費で器械製糸の模範工場を建設し、全国から製糸工女を募集して製糸技術の伝習を図ろうとしました。
そのため、フランスから技師１名と教官役の製糸工女４名を雇い入れ、明治５年（1872）７月に群馬県富岡に官営富岡製糸場を建設し、１０月の操業開始に向けて府県を通して同年３月に全国から製糸工女４００人を募集しました。
しかし、各地の戸長（現在の町村長）などが村内を巡って応募を勧めましたが、尻込みする者が多数でした。それは「集められた工女たちは、雇われ外国人に生血を吸い取られる」といううわさが世間に広まったことも原因の一つに挙げられました。日常ワインをたしなむフランス人の慣わしが誤解されたものです。
そこで政府は二か月後に改めて大蔵省名で詳しい告論文（誤りを諭す文）を示し、外国人に対する無責任な妄言（偽り事）であると否定し、再度募集勧告をしましたが応募した工女は少ないものでした。
いくら政府が否定しても、外国人に対する根も葉もないうわさが、まことしやかな話として広まっていたことがうかがえます。
翌年（1873）３月、須高から１４人が富岡製糸工場に入場しました。期間は２か月から７か月、また年齢も１５歳から２０歳と様々でした。

【026-AⅡ-155御公用留帳】








壬申五月
大蔵省
告論文
日本の産物にて交易の大なりて金高の上るとは
生糸に過るものなし。外国人もこれを貴びお国中の
利潤となる事を以て第一とす。然るにお国の生糸
かくのごとく上品なるは土地の宜しき布故にて、其の製法に
至りては只人々の覚えし手心より出来せるものにて
其の法いまだ精しからず。近年交易の繁昌するより
粗悪の品次第におおく、其上御国中一様ならず
品柄宜しからざれば、外国人ものを貴ばずして
値段も次第に下落し、交易の利分も大いに減少す。
此の損失は唯糸を製するもののみにあらず、自然総
体不融通となるなり。然るときは御国産第一の
品格を落とし、其の害全国に及び貧困の基を生ず。
なげきべき事ならずや。右に付き
朝廷万民進められんとし思召され、此の貧困の基を去りて
家に富饒の利を得せめんとの御趣意を以て上州富岡へ
多分の入費をかけ盛大なる生糸場を御建て
遊ばされ、フランス国より生糸製造師と男女の職人数
名を雇い入れ、当夏より無類様好なる生糸の製造
を御始め遊ばされ、御国中製糸に志ある者へは士民論せず
熟覧を許さる。此の製糸場において女職人４００人余り雇い
入れ相成り、製糸の法を学ばせらるべきに、右女は外国人に生血を
取るの事候などと盲言を唱え、人をおどし候もこれ有る
より、もっての外の事に候。右女人は製糸の術伝習の上は
御国内製糸の教師に成られ度御意に候得ば
決して疑念なく伝習のため、さし出でべく申し候。妄言に惑い
候て御趣意に障り候様義これなきよう致すべき。此の製糸場に
かくまで入費をかけ、盛んに開かせられ候御趣意は前文ごとく
御国生糸の思い万国に勝れ、永遠の御国益と相成り
全国の民をして皆富饒の利にうるおわせんために
て、只上より御世話成られ候。決して下民の利に上より
大集候様の訳にこれ無く御場所悉く皆成就製俵
の術習熟に過ぎ候て、民間これ望む者へ御払い下げも
仰せ付けられたき御趣意に候間、郡村製糸の者は
申すに及ばず四方の人民厚く御趣意を弁い、製糸の術と習
に心を入れ精好の品多分出来候様これ有り度候也
壬申五月
勧農寮

◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。
◆古文書等寄贈、寄託のお願い
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。

</description>
			<content:encoded><![CDATA[	<p>富岡製糸場に向かった工女たち（もんじょ紹介№7井上町区有文書から）</p>
	<p>幕末から明治初年ごろ、我が国の輸出第一位を占めていた生糸が、品質不揃いで一部が粗製乱造だと欧州諸国の評判を落とし、輸出が振るわなくなっていました。<br />
そこで明治政府は、品質の揃った生糸に改良して輸出不振を挽回しようと、従来の座繰り製糸から新式の器械製糸への転換を勧めました。その施策として、国の経費で器械製糸の模範工場を建設し、全国から製糸工女を募集して製糸技術の伝習を図ろうとしました。<br />
そのため、フランスから技師１名と教官役の製糸工女４名を雇い入れ、明治５年（1872）７月に群馬県富岡に官営富岡製糸場を建設し、１０月の操業開始に向けて府県を通して同年３月に全国から製糸工女４００人を募集しました。<br />
しかし、各地の戸長（現在の町村長）などが村内を巡って応募を勧めましたが、尻込みする者が多数でした。それは「集められた工女たちは、雇われ外国人に生血を吸い取られる」といううわさが世間に広まったことも原因の一つに挙げられました。日常ワインをたしなむフランス人の慣わしが誤解されたものです。<br />
そこで政府は二か月後に改めて大蔵省名で詳しい告論文（誤りを諭す文）を示し、外国人に対する無責任な妄言（偽り事）であると否定し、再度募集勧告をしましたが応募した工女は少ないものでした。<br />
いくら政府が否定しても、外国人に対する根も葉もないうわさが、まことしやかな話として広まっていたことがうかがえます。<br />
翌年（1873）３月、須高から１４人が富岡製糸工場に入場しました。期間は２か月から７か月、また年齢も１５歳から２０歳と様々でした。</p>
	<p>【026-AⅡ-155御公用留帳】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1771987209.jpg" width="300" height="435" alt="gkouyoutometyou1" class="img-responsive" /></p>
	<p><img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1771987230.jpg" width="480" height="407" alt="gokouyoutometyou2" class="img-responsive" /></p>
	<p><img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1771987886.jpg" width="430" height="367" alt="goyoutometyou3" class="img-responsive" /></p>
	<p><img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1771987904.jpg" width="380" height="659" alt="goyoutometyou4" class="img-responsive" /></p>
	<p>壬申五月<br />
大蔵省<br />
告論文<br />
日本の産物にて交易の大なりて金高の上るとは<br />
生糸に過るものなし。外国人もこれを貴びお国中の<br />
利潤となる事を以て第一とす。然るにお国の生糸<br />
かくのごとく上品なるは土地の宜しき布故にて、其の製法に<br />
至りては只人々の覚えし手心より出来せるものにて<br />
其の法いまだ精しからず。近年交易の繁昌するより<br />
粗悪の品次第におおく、其上御国中一様ならず<br />
品柄宜しからざれば、外国人ものを貴ばずして<br />
値段も次第に下落し、交易の利分も大いに減少す。<br />
此の損失は唯糸を製するもののみにあらず、自然総<br />
体不融通となるなり。然るときは御国産第一の<br />
品格を落とし、其の害全国に及び貧困の基を生ず。<br />
なげきべき事ならずや。右に付き<br />
朝廷万民進められんとし思召され、此の貧困の基を去りて<br />
家に富饒の利を得せめんとの御趣意を以て上州富岡へ<br />
多分の入費をかけ盛大なる生糸場を御建て<br />
遊ばされ、フランス国より生糸製造師と男女の職人数<br />
名を雇い入れ、当夏より無類様好なる生糸の製造<br />
を御始め遊ばされ、御国中製糸に志ある者へは士民論せず<br />
熟覧を許さる。此の製糸場において女職人４００人余り雇い<br />
入れ相成り、製糸の法を学ばせらるべきに、右女は外国人に生血を<br />
取るの事候などと盲言を唱え、人をおどし候もこれ有る<br />
より、もっての外の事に候。右女人は製糸の術伝習の上は<br />
御国内製糸の教師に成られ度御意に候得ば<br />
決して疑念なく伝習のため、さし出でべく申し候。妄言に惑い<br />
候て御趣意に障り候様義これなきよう致すべき。此の製糸場に<br />
かくまで入費をかけ、盛んに開かせられ候御趣意は前文ごとく<br />
御国生糸の思い万国に勝れ、永遠の御国益と相成り<br />
全国の民をして皆富饒の利にうるおわせんために<br />
て、只上より御世話成られ候。決して下民の利に上より<br />
大集候様の訳にこれ無く御場所悉く皆成就製俵<br />
の術習熟に過ぎ候て、民間これ望む者へ御払い下げも<br />
仰せ付けられたき御趣意に候間、郡村製糸の者は<br />
申すに及ばず四方の人民厚く御趣意を弁い、製糸の術と習<br />
に心を入れ精好の品多分出来候様これ有り度候也<br />
壬申五月<br />
勧農寮</p>
	<p>◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。<br />
◆古文書等寄贈、寄託のお願い<br />
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。<br />
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。</p>
]]></content:encoded>
			<comments>https://blog.suzaka.jp/bunshokan?p=44302&amp;c=1&amp;tb=1&amp;pb=1#comments</comments>
		</item>
				<item>
			<title>文書館だより「文政期の福島村」</title>
			<link>https://blog.suzaka.jp/bunshokan/2026/02/12/p44274</link>
			<pubDate>Thu, 12 Feb 2026 00:18:34 +0000</pubDate>
						<category domain="main"></category>			<guid isPermaLink="false">44274@https://blog.suzaka.jp</guid>
			<description>文政期の福島村（もんじょ紹介№4堀内秀雄家文書から）

1818年から1829年にかけての文政年間と、1804年から1817年の文化年間における文化活動は「化政文化」と呼ばれ、昨年の大河ドラマ「べらぼう」に描かれたように町人文化が隆盛を極めた時期でした。
しかし、貨幣経済の発展により町人が力をつける一方で、幕府・藩の財政悪化により、幕藩体制のほころびがみられるようになってきました。
また、商品経済の拡大と貨幣経済の浸透により、農村でも階層化が進展し、困窮した農民の離農、都市圏への流入が進み、帰郷令などにより対処しようとしましたが、効果が出ませんでした。
このような無宿人などの増加は社会の不安定化の要因となり、幕府や藩は頻繁に「御触書」を出し、統制を図ろうとしました。

今回ご紹介する文書は、松代藩から福島村に出された「御法度」で、百姓がしてはならない内容としています。
例えば
「他所奉公の儀前々より厳重に差し留め置き候」
…他領に行って奉公することは前々から厳しく禁じている。
「賭の勝負事が何の義によらず御法度」
　…賭博は禁止
「無宿・悪党共おびただしく村々を徘徊…召し捕らえさせ」
　…住所不定の者、悪事を働くものが村に来たら捕まえ
などがあります。

これら御法度が出されたということは、文政期の福島村では、街道筋を渡り歩く「無宿・悪党」外多くの人々が、様々な情報を持ち込むに従い、博奕や賭け事が流行っていたと考えられます。
村内から松代や江戸へ他所暴行が増大するなど村内を混乱させ、幕府や藩から「御法度」も威力を失いかけていたものと思われます。
なお、これらの文書は、五人組ごとに一連の文書を福島村役元に宛てて出しています。
松代藩が発した文書と、それに対し確かに承りましたとする村が出した請書について一部省略してご紹介します。

【017-B-64】


一札の事
他所へ奉公の義前々より厳重差し留め
置き候処、近年猥りに相成り、他所奉公
稼ぎに罷り出で候者多くこれ有る段相聞き、
甚だ以て心得違いの事に候。以来人詰改め
の節、事により爪印など申し付け儀も
これ有るべく候。且つ賭けの勝負事は何儀に依らず
御法度の義、銘々承知の事にこれ有る処
是又近年猥りに相成り多くの内には
御政道相ゆるみ候などと心得違いの者
もこれ有るや、去る秋以来別けて賭奕いたし
候追々相聞き、甚だ心得違いの事に候
右の趣相背くにおいては、当人は申すに及ばず
組合、三役人迄急度申し附くべく條かねて
其の旨存ずべき
前書き仰せ渡されの趣、村方五人組切明細に
吟味仕り、右等の儀御座無きよう仕るべく候
自然心得違いの者これ有り隠し置き、後日
脇々より達し、お聴きに達し候はば如何様の
曲事にも仰付らるべく。後日のため
連印差上げ仕り申し候、以上。　
　文政五年午閏正月
沖八㊞外9名
　御役元

【017-B-76】


一札之事
一　御領内の者高野山参詣の節蓮華
定院宿坊為すべき外へは無用の事に候。右之旨
延享二丑年相達し置き候処、後年により心得
違いの者もこれ有るやに相聞こえ候。向後蓮華
定院の外止宿致す間違い間、漏らさざる様触れ等置くべきもの也
右のとおり去る寅年申し渡し置き候処、大勢の中には
相守らざる者ままこれ有る趣相こえ、当人は勿論
役人共とても申し渡し、不行届き筋に相当り不埒の
事に候。向後急度相守り候様、厳しく申渡し置くべきもの也。
二月
近頃華合わせと名付け子供慰めに相用い候品を以て博奕
同様賭けの勝負専らいたし候哉と相聞こえ、不埒
の事に罷り、い来右躰の義これ有るにおいては
吟味の上急度咎申し付け候間、その旨相
心得べく旨仰せ渡され候間、其の旨存ずべきもの也

一　兼々仰せい出され候通り御郡中村々常々
倹約は勿論の義、婚礼葬式等随分手軽に
取り計らい申すべき事。村に寄婚姻等の節若者
芝戸障子など打ち破り、其の外甚だ狼藉及び儀
これ有るやに相聞こえ不行届き至極の事に候。以来右躰
の義相聞くにおいては穿鑿（せんさく）の上召し捕り厳重の
咎申し付けるべき条、かねてその旨存ずべきもの也。
岡　庄蔵外5名
前文仰せ渡され候趣組合一同若者まで承知仕り、向後
急度相守り申すべく御請け連印一札差上げ申し候、以上。
　　　文政五午年二月
　　　　　与右衛門外8名
　　　　　御役元

【017-B-９０】


御請
近頃無宿悪党共おびただしく村々を徘徊
致し、農業は勿論諸商売などいたし候
者及び難し儀に候趣お聴き入り候に付、この度
召し捕るため御出役に御座候所、何れも逃げ去り
行え相知れ申さず、これに依りお引き取り後又々
徘徊いたし候者はかり難く候間、村役人
並びに頭立等時々相廻り見当て候わば
容赦なく召し捕り、御役所へ御訴え申上げ
取り締まり方行届き候様仕るべく候。
（中略）
右は村ごと仰せ渡され御座無く候間、最寄り
村々へ申し通すべき旨仰せ渡され、承知畏れ奉り候。
依って御請書差上げ申し候、以上。
前書きのとおり御出役様御廻村向き
おいて厳しく仰せ渡され候趣、此度
御役元にこもごも組切に仰せ渡され一同畏れ奉り
御請けのため一札差上げ申し候、以上
　文政七年申の十二月
　　　数五郎外2名
　御役元

◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。
◆古文書等寄贈、寄託のお願い
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。</description>
			<content:encoded><![CDATA[	<p>文政期の福島村（もんじょ紹介№4堀内秀雄家文書から）</p>
	<p>1818年から1829年にかけての文政年間と、1804年から1817年の文化年間における文化活動は「化政文化」と呼ばれ、昨年の大河ドラマ「べらぼう」に描かれたように町人文化が隆盛を極めた時期でした。<br />
しかし、貨幣経済の発展により町人が力をつける一方で、幕府・藩の財政悪化により、幕藩体制のほころびがみられるようになってきました。<br />
また、商品経済の拡大と貨幣経済の浸透により、農村でも階層化が進展し、困窮した農民の離農、都市圏への流入が進み、帰郷令などにより対処しようとしましたが、効果が出ませんでした。<br />
このような無宿人などの増加は社会の不安定化の要因となり、幕府や藩は頻繁に「御触書」を出し、統制を図ろうとしました。</p>
	<p>今回ご紹介する文書は、松代藩から福島村に出された「御法度」で、百姓がしてはならない内容としています。<br />
例えば<br />
「他所奉公の儀前々より厳重に差し留め置き候」<br />
…他領に行って奉公することは前々から厳しく禁じている。<br />
「賭の勝負事が何の義によらず御法度」<br />
　…賭博は禁止<br />
「無宿・悪党共おびただしく村々を徘徊…召し捕らえさせ」<br />
　…住所不定の者、悪事を働くものが村に来たら捕まえ<br />
などがあります。</p>
	<p>これら御法度が出されたということは、文政期の福島村では、街道筋を渡り歩く「無宿・悪党」外多くの人々が、様々な情報を持ち込むに従い、博奕や賭け事が流行っていたと考えられます。<br />
村内から松代や江戸へ他所暴行が増大するなど村内を混乱させ、幕府や藩から「御法度」も威力を失いかけていたものと思われます。<br />
なお、これらの文書は、五人組ごとに一連の文書を福島村役元に宛てて出しています。<br />
松代藩が発した文書と、それに対し確かに承りましたとする村が出した請書について一部省略してご紹介します。</p>
	<p>【017-B-64】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1770855297.jpg" width="870" height="334" alt="issatu1" class="img-responsive" /></p>
	<p>一札の事<br />
他所へ奉公の義前々より厳重差し留め<br />
置き候処、近年猥りに相成り、他所奉公<br />
稼ぎに罷り出で候者多くこれ有る段相聞き、<br />
甚だ以て心得違いの事に候。以来人詰改め<br />
の節、事により爪印など申し付け儀も<br />
これ有るべく候。且つ賭けの勝負事は何儀に依らず<br />
御法度の義、銘々承知の事にこれ有る処<br />
是又近年猥りに相成り多くの内には<br />
御政道相ゆるみ候などと心得違いの者<br />
もこれ有るや、去る秋以来別けて賭奕いたし<br />
候追々相聞き、甚だ心得違いの事に候<br />
右の趣相背くにおいては、当人は申すに及ばず<br />
組合、三役人迄急度申し附くべく條かねて<br />
其の旨存ずべき<br />
前書き仰せ渡されの趣、村方五人組切明細に<br />
吟味仕り、右等の儀御座無きよう仕るべく候<br />
自然心得違いの者これ有り隠し置き、後日<br />
脇々より達し、お聴きに達し候はば如何様の<br />
曲事にも仰付らるべく。後日のため<br />
連印差上げ仕り申し候、以上。　<br />
　文政五年午閏正月<br />
沖八㊞外9名<br />
　御役元</p>
	<p>【017-B-76】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1770855373.jpg" width="900" height="226" alt="issatu2" class="img-responsive" /></p>
	<p>一札之事<br />
一　御領内の者高野山参詣の節蓮華<br />
定院宿坊為すべき外へは無用の事に候。右之旨<br />
延享二丑年相達し置き候処、後年により心得<br />
違いの者もこれ有るやに相聞こえ候。向後蓮華<br />
定院の外止宿致す間違い間、漏らさざる様触れ等置くべきもの也<br />
右のとおり去る寅年申し渡し置き候処、大勢の中には<br />
相守らざる者ままこれ有る趣相こえ、当人は勿論<br />
役人共とても申し渡し、不行届き筋に相当り不埒の<br />
事に候。向後急度相守り候様、厳しく申渡し置くべきもの也。<br />
二月<br />
近頃華合わせと名付け子供慰めに相用い候品を以て博奕<br />
同様賭けの勝負専らいたし候哉と相聞こえ、不埒<br />
の事に罷り、い来右躰の義これ有るにおいては<br />
吟味の上急度咎申し付け候間、その旨相<br />
心得べく旨仰せ渡され候間、其の旨存ずべきもの也</p>
	<p>一　兼々仰せい出され候通り御郡中村々常々<br />
倹約は勿論の義、婚礼葬式等随分手軽に<br />
取り計らい申すべき事。村に寄婚姻等の節若者<br />
芝戸障子など打ち破り、其の外甚だ狼藉及び儀<br />
これ有るやに相聞こえ不行届き至極の事に候。以来右躰<br />
の義相聞くにおいては穿鑿（せんさく）の上召し捕り厳重の<br />
咎申し付けるべき条、かねてその旨存ずべきもの也。<br />
岡　庄蔵外5名<br />
前文仰せ渡され候趣組合一同若者まで承知仕り、向後<br />
急度相守り申すべく御請け連印一札差上げ申し候、以上。<br />
　　　文政五午年二月<br />
　　　　　与右衛門外8名<br />
　　　　　御役元</p>
	<p>【017-B-９０】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1770855427.jpg" width="611" height="385" alt="uke" class="img-responsive" /></p>
	<p>御請<br />
近頃無宿悪党共おびただしく村々を徘徊<br />
致し、農業は勿論諸商売などいたし候<br />
者及び難し儀に候趣お聴き入り候に付、この度<br />
召し捕るため御出役に御座候所、何れも逃げ去り<br />
行え相知れ申さず、これに依りお引き取り後又々<br />
徘徊いたし候者はかり難く候間、村役人<br />
並びに頭立等時々相廻り見当て候わば<br />
容赦なく召し捕り、御役所へ御訴え申上げ<br />
取り締まり方行届き候様仕るべく候。<br />
（中略）<br />
右は村ごと仰せ渡され御座無く候間、最寄り<br />
村々へ申し通すべき旨仰せ渡され、承知畏れ奉り候。<br />
依って御請書差上げ申し候、以上。<br />
前書きのとおり御出役様御廻村向き<br />
おいて厳しく仰せ渡され候趣、此度<br />
御役元にこもごも組切に仰せ渡され一同畏れ奉り<br />
御請けのため一札差上げ申し候、以上<br />
　文政七年申の十二月<br />
　　　数五郎外2名<br />
　御役元</p>
	<p>◆文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。<br />
◆古文書等寄贈、寄託のお願い<br />
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。<br />
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。
</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
				<item>
			<title>文書館だより「須坂町で行われた御成婚記念事業」</title>
			<link>https://blog.suzaka.jp/bunshokan/2026/01/27/p44236</link>
			<pubDate>Tue, 27 Jan 2026 04:25:03 +0000</pubDate>
						<category domain="main"></category>			<guid isPermaLink="false">44236@https://blog.suzaka.jp</guid>
			<description>須坂町で行われた御成婚記念事業（須坂町報から）

大正13年（1924年）1月26日に摂政宮裕仁親王（のちの昭和天皇）と久邇宮良子女王（のちの香淳皇后）との御成婚記念事業は、全国各地で行われたようですが、旧須坂町で行われた記念事業について「須坂町報」からご紹介します。

全国のご成婚記念事業としては運動場整備や公会堂建設、公園整備などがみられますが、須坂町では「大運動場」整備を行いました。これは、明治以降日清・日露戦争、第一次世界大戦への参戦などにより、富国強兵政策遂行に沿った人材の育成の必要性などから, 国民体育振興機運が高まっていた時代背景を反映したものと考えられます。

大運動場は
運動場7,831坪25勺（約25,890㎡）
水泳場　1,380坪（約4,560㎡）
といった広大な施設を23,893円で整備を行いました。
大運動場の整備にあたっては、青年会、須坂小学校児童・教職員も労力奉仕を行いました。（須坂小学校百年史より）
大運動場は現在須坂小学校及び常盤中学校グラウンドとして使用されています。水泳場は現在の市民体育館の場所にありました。

【御成婚記念事業決定】


大正１４年２月２５日発行の町報で、御成婚記念事業は大運動場整備に決定したことを伝えています。決定理由として「本町常盤部小学校運動場は児童の増加に伴い非常に狭隘となり、従って児童の教養上・体育上に及ぼす悪影響少なからざるものありしため」と、「近年小学校のみならず、一般に体育奨励に努めつつあり」の2点を挙げており、整備場所については「町的大運動たるとともに、小学校に接続し居るところなれば、小学校の運動場にも兼用し得ることとなり一挙両得の方法」であるとしています。

【記念運動場の開場に就いて】


１１月３日の町報で須坂小学校長山口菊十郎が「記念運動場の開場に就いて」と題し寄稿していますが、大運動場整備の目的を「須坂町民の体育を進めるため及び精神鍛錬のため」とし、その理由を上高井郡内における12歳児の身長は勝るものの、体重は劣るいわゆる「キャシャ」な体つきである。更に大正11年度の徴兵検査における甲種合格の割合は郡内13位、徴兵免除の割合は2位と低迷しているとしています。こうしたことの解消のためには、「修養時代には広々とした場所において自由自在に跳ね回ることの経験を得しめねばならない」としています。

【工事報告概要】


大正13年1月19日　4ケ年継続支出により整備することを議決
　　　　　　　3月16日　入札。須坂町酒井健太郎請負
　　　　　　　4月20日　起工式
総工事費等　23,893円

【運動場開場式】


開会式は明治節（明治天皇誕生日）の11月3日に、第一　神事、第二　開場式、第三　水陸競技会と行われ、競技会には県内青年会、学校生徒約300名が参加しました。
陸上競技は100ｍ、400ｍ、1500ｍ、5000ｍ、棒高跳び、走幅跳び、やり投げ、円盤投げが行われ
水上競技として自由形競泳100ｍ、背泳ぎ100ｍが行われました。


また、須坂町の事業ではありませんでしたが私立須坂図書館が須坂町青年会により須坂小学校常盤部内に設置されました。その後図書館は1939年（昭和14）須坂町に移管され、現在に至っています。
【図書館計画】


大正１４年１月１日付町報に掲載された、青年会が立案した図書館整備計画です。三段階にした計画としており、
1　創立計画
〇創立資金　１千円（寄付金、町補助、青年会事業益）
〇設置場所は須坂小学校常盤部一室を借用
2　第二次計画
(１)　図書購入準備のため後援会設立
(２)　読書会の設立
(３)　専任職員の配置
(４)　図書館に関する思想の普及・徹底
3　第三次計画
(１)　町立とする
(２)　図書館の建設

【図書館開館】


大正１５年３月１５日発行の町報で、図書館を３月２８日に開館するとしています。


◇古文書等寄贈、寄託のお願い
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。
◇文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。</description>
			<content:encoded><![CDATA[	<p>須坂町で行われた御成婚記念事業（須坂町報から）</p>
	<p>大正13年（1924年）1月26日に摂政宮裕仁親王（のちの昭和天皇）と久邇宮良子女王（のちの香淳皇后）との御成婚記念事業は、全国各地で行われたようですが、旧須坂町で行われた記念事業について「須坂町報」からご紹介します。</p>
	<p>全国のご成婚記念事業としては運動場整備や公会堂建設、公園整備などがみられますが、須坂町では「大運動場」整備を行いました。これは、明治以降日清・日露戦争、第一次世界大戦への参戦などにより、富国強兵政策遂行に沿った人材の育成の必要性などから, 国民体育振興機運が高まっていた時代背景を反映したものと考えられます。</p>
	<p>大運動場は<br />
運動場7,831坪25勺（約25,890㎡）<br />
水泳場　1,380坪（約4,560㎡）<br />
といった広大な施設を23,893円で整備を行いました。<br />
大運動場の整備にあたっては、青年会、須坂小学校児童・教職員も労力奉仕を行いました。（須坂小学校百年史より）<br />
大運動場は現在須坂小学校及び常盤中学校グラウンドとして使用されています。水泳場は現在の市民体育館の場所にありました。</p>
	<p>【御成婚記念事業決定】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1769488022.jpg" width="670" height="280" alt="undoujyoukettei" class="img-responsive" /></p>
	<p>大正１４年２月２５日発行の町報で、御成婚記念事業は大運動場整備に決定したことを伝えています。決定理由として「本町常盤部小学校運動場は児童の増加に伴い非常に狭隘となり、従って児童の教養上・体育上に及ぼす悪影響少なからざるものありしため」と、「近年小学校のみならず、一般に体育奨励に努めつつあり」の2点を挙げており、整備場所については「町的大運動たるとともに、小学校に接続し居るところなれば、小学校の運動場にも兼用し得ることとなり一挙両得の方法」であるとしています。</p>
	<p>【記念運動場の開場に就いて】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1769488068.jpg" width="480" height="502" alt="undoujyounituite" class="img-responsive" /></p>
	<p>１１月３日の町報で須坂小学校長山口菊十郎が「記念運動場の開場に就いて」と題し寄稿していますが、大運動場整備の目的を「須坂町民の体育を進めるため及び精神鍛錬のため」とし、その理由を上高井郡内における12歳児の身長は勝るものの、体重は劣るいわゆる「キャシャ」な体つきである。更に大正11年度の徴兵検査における甲種合格の割合は郡内13位、徴兵免除の割合は2位と低迷しているとしています。こうしたことの解消のためには、「修養時代には広々とした場所において自由自在に跳ね回ることの経験を得しめねばならない」としています。</p>
	<p>【工事報告概要】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1769488106.jpg" width="790" height="251" alt="koujihoukoku" class="img-responsive" /></p>
	<p>大正13年1月19日　4ケ年継続支出により整備することを議決<br />
　　　　　　　3月16日　入札。須坂町酒井健太郎請負<br />
　　　　　　　4月20日　起工式<br />
総工事費等　23,893円</p>
	<p>【運動場開場式】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1769488145.jpg" width="630" height="403" alt="kaijyoushiki" class="img-responsive" /></p>
	<p>開会式は明治節（明治天皇誕生日）の11月3日に、第一　神事、第二　開場式、第三　水陸競技会と行われ、競技会には県内青年会、学校生徒約300名が参加しました。<br />
陸上競技は100ｍ、400ｍ、1500ｍ、5000ｍ、棒高跳び、走幅跳び、やり投げ、円盤投げが行われ<br />
水上競技として自由形競泳100ｍ、背泳ぎ100ｍが行われました。</p>
	<p>また、須坂町の事業ではありませんでしたが私立須坂図書館が須坂町青年会により須坂小学校常盤部内に設置されました。その後図書館は1939年（昭和14）須坂町に移管され、現在に至っています。<br />
【図書館計画】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1769488184.jpg" width="490" height="352" alt="toshokankeikaku" class="img-responsive" /></p>
	<p>大正１４年１月１日付町報に掲載された、青年会が立案した図書館整備計画です。三段階にした計画としており、<br />
1　創立計画<br />
〇創立資金　１千円（寄付金、町補助、青年会事業益）<br />
〇設置場所は須坂小学校常盤部一室を借用<br />
2　第二次計画<br />
(１)　図書購入準備のため後援会設立<br />
(２)　読書会の設立<br />
(３)　専任職員の配置<br />
(４)　図書館に関する思想の普及・徹底<br />
3　第三次計画<br />
(１)　町立とする<br />
(２)　図書館の建設</p>
	<p>【図書館開館】<br />
<img src="https://blog.suzaka.jp/2026/1769488224.jpg" width="690" height="285" alt="toshokankaikan" class="img-responsive" /></p>
	<p>大正１５年３月１５日発行の町報で、図書館を３月２８日に開館するとしています。</p>
	<p>◇古文書等寄贈、寄託のお願い<br />
文書館では須坂市（旧須坂藩域を含む）に関係する歴史資料の散逸・滅失防止を図り、地域の歴史を掘り起こし、研究に資するため、市民共通の財産である須坂市や関係する古文書などの収集・整理・保存・活用を行なっています。<br />
　お持ちの古文書などについて寄贈、寄託していただきますようお願いします。<br />
◇文書館はどなたでもご利用いただける施設です。「こんな史料はないか」「こんなことを調べたい」など古文書や文書館に移管された文書（旧町村文書、須坂市文書）、様々な資料や図書から資料探しのお手伝いをします。
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