もんじょ紹介№23吉池一彦家文書から
「欠落文」
欠落 (かけおち)とは近世、重税・貧困・悪事などから、居住地を離れてよその土地へ逃げること。(デジタル大辞泉)
江戸時代は「駆落ち」とは書かず「欠落」と書きます。「蓄電(ちくでん)」や「出奔(しゅっぽん)」、「家出」と同義です。
前回は不埒をしたために家出をしたが、五人組の執り成しで帰郷できるようになった文書をご紹介しましたが、今回は吉池一彦家文書から、多子や不作による生活苦のために欠け落ちしたが、その後始末と百姓を続けられるよう、村役人などにお願いした文書です。
【欠落文】
【読下し文】
書置き口上
近年私義ご存念下され候通り、子ども多にこれ候処、近年不作困窮いたし、借金等多く重なり、難儀至極仕り候。これに依りこの度よんどころ無く家出仕り候。何分跡片付け方宜しく願い奉り候。ご拝借等にご座候えば、残らず差し出し候ても引きたり申すまじくと存じ奉り候えども、何卒又またお百姓に立ち帰り候ようにお取り計らい一重に願い上げ奉り候。何分なにぶんにも然るべきよう万事願い上げ奉り候。以上
二月十一日 要蔵
儀八 様
平左衛門 様
文左衛門 様
礒右衛門 様
仙助 様
組合中 様
御村方 様
【解説】
要蔵が家出(欠け落ち)にあたり、書置きした簡単な文書です。
子どもが多く、近年の不作で困窮し、借金も多くあり難渋していることから、やむを得ず家出します。ついては後始末をお願いし、借金については全財産を差し出しても不足するでしょうが、百姓に立ち帰る際には取り計らいをお願いしたい。
村役人や組合(五人組)、更に村中に願う口上書で、何とも都合の良い言い分ですが、これが「欠け落ち」の実態と思われます。恐らくは、実際には欠け落ちはせず、村役人で手配し、要蔵が百姓を続けられるようにしたものと考えられます。
村役人がこのような対応をしたのは、当時貧困その他の理由のために欠落する者があると、村役人は所轄の役人に届け出なければならない。役所はその者の捜査を親類や村役人に一定の日限を定めて命じるが、期間内に見つからないと捜査の範囲が次第に広げられていくことになり、親類や村役人などにとって大きな負担となったことや、五人組では年貢納入の共同責任を負わなければならなかったためと考えられます。
もんじょ紹介№22小田切幸一家文書から
「江戸時代の五人組制度」
江戸時代にはどの村にも「五人組」が作られていました。寛永10年代(1633~1642)に全国で設置されたと考えられており、明治維新に至るまで続きました。通常は五戸(五軒)で一組を組み、その頭を「(五人)組頭」と呼んでいました。六戸から七戸で一組を組む場合もありました。この場合でも「五人組」と呼びました。ご紹介する文書では六戸で一組となっており、組頭は孫七となっています。
「五人組」の主な狙いは
1 組の中に不埒な者が居たら申し出ること
2 キリシタンとその関係者は隠しておかないこと
3 組の中から欠け落ちする者を出さないこと。もし出たら組中で探し出すこと。
4 組の中で病人など出て耕作が出来かねるようなときは互いに助け合い、年貢などに未納が生じないようにすること。そして未納となる場合は、五人組で弁納すること。
などでした。則ち、治安維持、キリシタン禁教の徹底、年貢納入の連帯責任を負わせることでした。
なお、五人組の構成員となるのは田畑屋敷を所有し、年貢を負担する「本百姓」でした。
今回ご紹介する文書は小田切幸一家に残された文書で、横町の惣助が不埒なことをしたために江戸に出たが、五人組のとりなしで須坂に帰ることが許され、もう二度と不埒なことをしないという誓いと、それに対し五人組が保証することを村役人(年寄、名主)に出した文書です。
【一札之事】
【読下し文】
一札の事
一 先達て私不埒仕り候に付き、家出致し候節、組合の者へ御帳外になさるべき段仰せ聞かされ候所、組合の者、私妻子もご座候に付き、江戸表に一両年差し置き、心躰相改め候わば、帰国致させ、ただ今までの通りお百姓相続け仕らせたきよう願い上げ候所、ご勘弁をもってお聞き済み下し置かれ、私しあわせに存じ奉り候。然る所病気に付き帰国仕り、右の趣き承知仕り、それぞれ様はじめ組合へも申し訳なくご座候。これ以後の儀は幾重にもこれまでの心躰相改め、お百姓相続け仕るべき旨、組合をもってご訴訟申し上げ候処、お聞き済み下されご厚情の段と存じ奉り候。然る上はいささか不埒致し候とも御上様へ仰せ上げられ、如何に仰せ付けられ候とも、一言の申し上げようもご座無く候。これに依り一札差し出し申し候。以上。
文化元年子十二月
横町上組 惣助
御町年寄中
御名主御中
前書き惣助申し上げ候趣きに付き、私共ご訴訟申し候処、お聞き済み下され候に付き、これ以後不埒等の儀は致させまじく候。後日のため奥印形致し差し出し申し候。以上
横町惣助五人組
三郎右衛門 印
忠治 印
粂右衛門 印
林右衛門 印
小三郎 印
組頭 孫七 印
【内容】
先日、私は不埒なこと(禁止されている博奕でもしたか)をしてしまいましたので家出をしました。その時町役人からは「帳外れ者(人別帳から外す・無宿人)」にするようにと言われましたが、私のいる五人組の者たちが「妻子もあることだし、江戸で1~2年働かせて、今までの生活態度を改めたなら故郷に帰らせ、今まで通りお百姓を続けさせてほしい。」とお願いしたところ、お許しいただき幸せに思います。
ところが、江戸で病気になってしまい故郷に帰ることになり、皆さんに対したいへん有難く思います。「これからはひたすら、これまでの生活態度を改め、お百姓を続けたいと思います。」と五人組を通してお願いしたところ、許していただきお情け深いことと思いました。これから不埒なことをしたなら、御上様に訴えられどんな罰を受けようとも一言の言い訳もしません。
(中略)
惣助の言うことを私どもがお願いしたところお許しいただきました。今後は不埒なことはさせません。後々のため印を押した書面を提出します。
もんじょ紹介№23吉池一彦家文書から
「越後から出稼ぎ」
小河原町の吉池一彦家は松代藩領小河原村で代々名主など村役人を務めた家で、江戸期を中心に多くの古文書が残されています。
今回ご紹介する史料は、二通とも越後国頚城郡武士村(もののふむら・現在は新潟県中頸城郡清里村)の屋根葺き吉兵衛と三左衛門の出稼ぎに関し身元証明の文書です。万一の場合には、その村(小河原村)の作法に従うとあります。出稼ぎであるから「腰札(人夫、職人などに腰に下げさせた鑑札)」が必要とわかります。また、武士村庄屋 平田助右衛門は名字を名乗ることを許された家格であったこともわかります。なお、妙土寺は現在も同地に残ります。
【寺送り状】
【寺送り一札】
寺送り一札の事
越後国頚城郡武士郷武士村
屋根ふき 吉兵衛
右同断 三左衛門
右の者ども宗旨の儀は代々浄土宗にて、拙寺旦那に紛れ御座無く候。もし御法度の宗門と申す者御座候はば、拙僧何国までも罷り出できっと申し訳仕るべく候。万一右の者ども病死等仕り候はば、其の御村方のご作法にお取り計らい下さるべく候。その節拙寺に於いて申し分御座無く候。後日のため送り一札よって件のごとし。
越後国頚城郡武士郷武士村 妙土寺
文政5午年2月
信濃国高井郡小河原村 御名主中
【送り一札】
送り一札の事
越後国頚城郡武士郷武士村
屋根ふき 吉兵衛
右同断 同 三左衛門
右の者ども勝手をもって其の御国元へ罷り越し、屋根ふき稼ぎ仕りたき段願い候に付き、身元とくと相改め候ところ、何にても故障の義御座無く候間、願いに任せ送り書き付け差し出し申し候。然る上はお気遣いなく、腰札お願い申されるべく候。万一不埒の儀も出来(しゅったい)仕り候はば、其の御村方のご作法にお取り計らい下さるべく候。その節此の方何にても申し分御座無く候。後日のため送り一札よって件のごとし。
同村 庄屋 平田助右衛門
文政5午年2月
信濃国高井郡小河原村 御役人中
文書館だより№49
もんじょ紹介№18から「中馬稼ぎ出願の村々」(大沢英一郎家文書)
ご紹介する文書は沼目町 大沢英一郎家に残された文書です。安永2年(1773)、中馬稼ぎ(馬や牛を使って他人から依頼された荷物を運び、その対価として報酬を得る。主に長野県、山梨県で行われた。)をしたいので、途中の宿場を通る時に口銭(通行税)を払わなくても済むように「中馬鑑札」を出してください。そうすれば馬1疋に付き7匁5分、牛1疋に付き3匁7分5厘の冥加金を上納します。と願い出た文書です。
【願文】
【読下し文】
恐れながら書付を以て申し上げ奉り候
この度当村々中馬稼ぎ仕りたく候は、御吟味御座候
此の段 馬四疋 牛二疋 野辺村
右これは農業の間々、越後、上州、当国中馬稼ぎ仕りたく、願い奉り候。右に付き宿々口銭相払わずお通し下し置かれ候上は、御冥加金として馬一疋に付き七匁五分、牛一疋に付き三匁七分五厘仰せ付けられ、下し置かれ候ように願い上げ奉り候。万一御鑑札請け主怠り破れ仕り候節は、右鑑札さし上げ申したく間、御取り上げ下し置かれ候よう願上げ奉り候。
馬十疋 小山村
八疋 塩川村
二疋 高梨村
二疋 八重森村
三疋 小島村
十四疋 日滝村
四疋 坂田村
十五疋 綿内村
馬八疋 灰野村
牛五十四疋 同所
右は当村牛馬数、書面のとおり相違御座無く候、以上
安永二巳年九月 沼目村忠兵衛 判
菊池宗内様
中村丈助様
【中馬稼ぎを願い出た村々】
〇灰野村では牛54疋と、馬に比べて牛の数が非常に多いのは、険しく雪が積もる三原道では牛が使われたためです。(宮川孝男氏「三原道」より)
〇江戸時代金1両=銀60匁でしたので、1両=8万円とすると1匁=1,333円となり、冥加金は馬1疋で約1万円、牛1疋で約5千円になります。
※中馬稼ぎについては須坂市誌第四巻(歴史編Ⅱ)213ページからの「4 牛馬の駄賃稼ぎ」に詳しくありますので、こちらもご覧ください。
◆ご紹介した資料は閲覧申請をしていただくと、どなたでも無料でご覧いただけます。ただし、閲覧は申請当日はできなく、数日お時間をいただきます。
もんじょ紹介№22「小田切幸一家文書」から
「伊能忠敬測量隊への差出文書」
伊能忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、その後伊能家の養子となり、17歳で伊能家当主となってからは、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。 49歳で息子に家督を譲り隠居して勘解由と名乗り、50歳で江戸に出て幕府天文方 高橋至時の弟子となって測量術を学び、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり日本全国の測量を行い、日本地図を完成させました(完成は忠敬の死後)。地図は、極めて精度の高いもので、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。
測量の旅中、忠敬は欠かさず日記をつけており、「伊能忠敬日記」として残され、国宝になっています。日記によると、須坂には第8次に九州第2次測量として文化8年(1811)11月25日~文化11年(1814)5月22日に行われた帰路、文化11年5月2日に飯山に泊り、中野、小布施を通り、5月3日に須坂に宿泊し、翌4日には松代に宿泊しています。
(須坂近辺の日程については『須高』第67・74号に詳しくありますのでご覧ください。須高のバックナンバーは文書館、市立図書館でご覧いただけます。)
第1次の北海道から第4次の東海・北陸までは主として忠敬が費用負担をして行っていましたが、第4次までの測量結果をまとめた『日本東半部沿海地図』が幕府に認められ、第5次測量からは幕府の直轄事業となり、各地では測量に協力を求められた。
そのため、事前に当地の絵図、概要の提出を求められたと考えられ、須坂村が提出した控と思われる文書が小田切幸一家文書に残されています。
伊野忠敬測量隊へ差し出した文書
【絵図】
【書き上げ】
信州高井郡 堀淡路守御領分 須坂村
堀淡路守御領分 信州高井郡須坂村
一 高1259石2斗7升7合4勺
一 家数482軒 内469軒本村 内48軒穀町加入
13軒枝村
一 村長 東西22間 内8町8間居村・13町50間野間
南北17町4間 内11町34間居村・内5丁穀町加入・5町30間野間
一 村内往還筋 15町2間 但し相森新田村境より小山村境まで
但し今般ご通行の道筋に御座候
一 当村南北へ往還通り一筋御座候 但し、駅場立埸にても御座無く候
但し中仙道沓掛宿より上州大笹それより当国仁礼へ掛り当所より罷り出で越後路までの脇往還に御座候
一 当村家際より隣村家際まで
相森新田家居まで方角 子 凡そ6丁 その間田畑
日滝村枝郷 高橋村へ同断方角 丑 但し家続き
小山枝郷寺内村まで方角 巳 但し同断
同村本村へ方角 午 凡そ2丁 この間畑
同村枝村八幡へ方角 未 凡そ10町 同断
塩川村まで方角 酉 凡そ10丁 同断
沼目村まで方角 戌 凡そ10丁 この間田畑
小川原村まで方角 亥 凡そ12丁 同断
一 当村街道2筋
当国埴科郡松代城下へ 凡そ4里
同郡中野条御陣屋へ 凡そ10里
同国高井郡中野御陣屋へ 凡そ3里
同 水内郡飯山城下へ 凡そ6里半
中山道沓懸へ 凡そ14里
越後国高田城下へ 凡そ16里
一 川一筋 但し相森境柳沢と相唱え申し候
但し 1里川上 同郡高井野村柳沢と申すより流れ出で、川下凡そ1里ばかり流れ小嶋村にて百々川と申すへ落合少水の川へ
一 御朱印 御座無く候
一 領主黒印高三石 浄土真宗勝善寺
一 社 三か所 内 諏訪大明神・天満宮・伊勢宮
一 寺 二ケ寺 内 禅宗寿泉院・浄土宗浄念寺・
但し 黒印勝善寺前書き書上げ候
一 古城跡 御座無く候
一 遠山見渡し 当国飯縄山 方角 酉、凡そ5里
同 黒姫山 方角 戌、凡そ7里
越後国妙光山 方角 亥 凡そ8里
当国斑山 方角 亥子、凡そ5里
同 高井郡高井村 方角 寅、凡そ4里
同 四阿山 方角 辰巳、凡そ4里
同 菅平山 方角 巳、凡そ4里
同 八丁山 方角 午、凡そ1里
一 名所 御座無く候
一 旧跡 御座無く候
一 名産 造酒、杏仁
右の通り相違御座無く候、以上
5月3日 須坂村名主 彦太夫、又右衛門
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