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いくいく Mura3

カテゴリ: 短編小説

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伝えたいこと

まだドイツが分断されていた頃、悲しい恋のお話。

結ばれることのない若い二人は、将来に失望しベルリンの壁を隔てて同じ時刻にナイフを自分達の体に突き立てた。

目が覚めると男は病院のベッドの上だった。

男は退院すると彼女の行方を追ったが、あの時に亡くなったことを知った。

男は悲しみにくれた。

そんなある日彼女が男の夢にあらわれた。

「悲しみにくれて命を絶つのは簡単なこと。でも生きて、そうすれば最後に私が今何を伝えたいのか必ずわかるから・・・」

男は深い悲しみの中で、それでも「彼女の伝えたいこと」を聞く義務がある、そう考え必死に生きた。
彼女の命の火が消えた今でも伝えたいこと。

時間はながれ、老いた男は病気に罹り余命はあとわずか。

そんなときニュースから流れてきたのは「ベルリンの壁崩壊」。

そうか・・・

彼女が伝えたかったこと。
それは生きていれば願いは叶うということ。
あの時二人が早まらなければ、たとえ数ヶ月でも夫婦として暮らせた。

「私はこちらに来てすぐに知ったの、あなたもわかったでしょ。」
彼女は、あのときのまま若く美しかった。
「迎えにきたわよ。」
男は「私だけこんなおじいさんになってしまったよ」と。
彼女は優しく微笑みながら男の手をとった。
「あなたの皺のひとつひとつが私への想いであることは知ってるわ」

周りの人は口々に言った。
人間嫌いの偏屈な男が一人寂しく逝ったと。

しかし、男の死顔は微笑み幸せに満ちた表情であったことを誰も知らない。

命はとても尊いもの。
男は人生の最後でその重みに初めて気がついたのだ。
そしてそれが、彼女の伝えたいこと。

三枚の写真

仕事一筋で頑固な父とは、私が学校を卒業して家を出てからほとんど会っていない。
父の定年退職のお祝いも、なんだかんだ言い訳をつけて行かなかった。

ある日、母から電話。
「お父さんが倒れちゃって、すぐきてくれんか」

私は、父の最期に間に合わなかった。

数日後、母を気遣いつつ遺品整理をしていた。
父の生前愛用していたと思われるカバンからカメラが一台。
「お父さん無趣味だったでしょ、退職金で買ったのよ」と母。

まだカメラは新しく、フィルムは3枚しか撮影されていなかった。

私は母に頼まれ写真を現像にだした。

仕上がった写真。
私には興味もなかった。

でも、たった三枚なので無意識に見ていた。

一枚目には家の庭が写されていた。

そして、二枚目に母が洗濯物を干しているところ。

最後の三枚目

私は突然鼻の奥がつーんとしたかと思うと目からは涙が溢れた。

私が小さい頃父と撮った数少ない写真のうち1枚。
そして母に送ったはずの私と夫、来月1歳になる息子の写真。

その2枚をテーブルに並べて写真を撮ったようだった。

やるせなくて、自分が許せなくて、涙が止まらなかった。

輪廻

戦場の兵士は、引き金を引くことの重大さを
           自分が銃弾を浴びたときに思い知るでしょう。

自分の子を虐待した親は
   老いて一人きりで死に逝くときに空しい人生に気が付くでしょう。

罰をもって罪を償わせようとするものたちは
     自分が罪の対象となった時に罰の無意味さを知るでしょう。

本当の悲しみや苦しみ、痛みを知っている人は
        優しい体温もりでそれらが軽くなることを知っています。

一番悲しい人は
 立場と地位で保身に走ったことにすら気が付かない人たちでしょう。

痛みも、幸せもわからないのですからその人生は無です。

求めたもの

小鳥は空を飛びたかった。
鳥篭から、青くて高い空に。

小鳥は鳥篭から逃げ出した。
でも自由に飛ぶことができなかった。
飛び羽が切られていたから。

小鳥はお腹をすかせて公園の木陰に隠れていた。
すると少女がエサを持ってきてくれるようになった。

少女は母親に相談した。
「公園に小鳥がいるの、飼ってもいい」
母親は「うちにも鳥、いるでしょう。病気とかに罹ってた大変。うちの鳥高かったんだから」

少女は毎日小鳥にエサをはこび、見つからないように小さな鳥小屋も用意しました。

小鳥は思いました。
逃げ出したのは自分なのに、結局エサをもらって鳥小屋から高い空を眺めてる。

ある日、小鳥は猫に襲われました。
幸い鳥小屋の入り口が小さかったんでその場で命をを落とすことはありませんでした。

少女は、血だらけの小鳥を手に乗せて泣きました。
そして「ごめんね、ごめんね」といいました。

でも小鳥は満足でした。
そして、逃げ出した自分に優しくしてくれた少女にとても感謝しました。

やっと小鳥は青く高い大空を自由に飛べるようになりました。

そして、少女は泣きながら小さなお墓をつくりました。

少女は小さな命の重さをしりました。
そして小鳥は優しさを知り夢を叶えました。

邂逅

厳しい祖父だった。
元旧帝国陸軍の士官。
それも皇居の護衛を担当する近衛兵だったと聞いている。

僕は生まれてから3歳までを祖父母と暮らしたらしい。
その後も保育園や学校が夏休みや冬休みに入ると祖父母の家に行く、それが高校を卒業するまでの年中行事になっていた。

祖父は仕事人間で朝早く家を出て帰ってくるは僕が寝る時間。
言葉を交わした記憶があまりない。

ただ、日曜日には朝食を済ませた僕に黙って釣竿を差し出す。
「行くぞ」
これが子供の頃の一番の楽しみだった。
祖父母の家から海までは歩いて行ける距離。
僕は祖父の大きな背中を追いかけて必死に釣竿を抱えながら着いて行く。
釣りをしていても祖父がかけてくる言葉は「あぶないぞ」「そろそろ帰る」くらい。
僕が始めて自分で魚を釣り上げたときも、一言「釣れたか」だった。

夏祭りのある夜、遠くでお囃子がきこえる。
「行きたいか?」
「うん」
僕の返事を聞くと祖父は黙って玄関へ。
「何してる、早く来い」
通りには屋台が並び人々でごった返し祖父の背中を見失いそうになる。
そうすると決まって大きくゴツゴツとした手が僕の手を握ってくる。
僕はその大きなゴツゴツとした手がとても好きだった。
いつも背筋をピンっと伸ばし胸を張って歩く祖父は威風堂々としており、そんな祖父の手にはとても安心できた。

僕が成長するにつれ、益々祖父と言葉を交わす機会は少なくなった。
祖父はもしかしたら仕方なく僕の面倒を見てくれているのかもしれないと思うほど。
そんな事もあって、僕と祖父の距離は縮まることはなく僕は学生から社会人になる。
任地に赴任する数日前に制服姿で祖父に敬礼してみせた。
喜んでくれると思い込んでいたその祖父からの言葉は「背筋を伸ばして胸をはれ!」だった。

何年が過ぎたろう。
ある日祖父が急逝したという知らせを受けた。
僕は現実逃避する癖がある。
「そんな事あるはずがない」という思いで祖父母の家に入ると、そこには棺に納められた祖父。
祖父は亡くなって棺に納められてまで堂々としているようだった。

祖父が僕に言った最後の言葉
「背筋を伸ばして胸をはれ!」

威風堂々、正義と言う言葉が服を着て歩いているような祖父。
近くても近寄りがたかった祖父。

告別式が終わり祖父母の家に戻った僕は、祖母から大きめなお菓子の箱を受け取った。
「これ何?」
「開けてみればわかるよ」
僕は居間に座りゆっくりと箱を開けた。

中には一冊のノートと魚拓が入っていた。
魚拓はわずか15cmほどの「しま鯛」のもの。
「孫が始めて釣った魚」と記されている。
僕は目頭が熱くなった。
そしてノートには、僕と祖父が過ごした時間の全てが記されていた。
そして数枚の写真、僕の子供の頃の写真がはさんである。
そのうち何枚かは持ち歩いていたようにボロボロだった。

祖父が亡くなって、初めて僕と祖父の距離がなくなった。
涙が止まらなかった。

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