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2024/04/24

豊丘村系図に見る合併分離事情

10:24:29, カテゴリ:  

もんじょ紹介№15 市川喜太郎家文書から
豊丘村系図に見る合併分離事情

明治以降これまで3回、国が主導して市町村の合併が進められてきました。
明治の大合併は、近代的地方自治制度である「市制町村制」の施行に伴い、行政上の目的(教育、徴税、土木、救済、戸籍の事務処理)に合った規模と自治体としての町村の単位(江戸時代から引き継がれた自然集落)との隔たりをなくすために、町村合併標準提示(明治21年 6月13日 内務大臣訓令第352号)に基づき、約300~500戸を標準規模として全国的に町村合併が推進され、1888年(明治21)に71,314あった町村数は15,859と約5分の1に減少しました。

昭和の大合併は、戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防や自治体警察の創設の事務、社会福祉、保健衛生関係の新しい事務が市町村の事務とされ、行政事務の能率的処理のためには規模の合理化が必要とされたことによります。1953年(昭和28)の町村合併促進法(第3条「町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準」)及びこれに続く1956年(昭和31)の新市町村建設促進法により、「町村数を約3分の1に減少することを目途」とする町村合併促進基本計画(昭28年10月30日 閣議決定)の達成を図ったものです。約8000人という数字は、新制中学校1校を効率的に設置管理していくために必要と考えられた人口です。1953年に286市1,966町7,616村、総数9,868市町村あったものが、1961年(昭和36)には556市1,935町981村、総数3,472市町村とほぼ3分の1になりました。

平成の大合併は、人口減少・少子高齢化等の社会経済情勢の変化や地方分権の担い手となる基礎自治体にふさわしい行財政基盤の確立を目的として、1999年(平成11)から10年間、市町村合併特例債の期限が切れる2009年度(平成21)まで進められました。これにより1999年の670市1,994町568村、総数3,232が2010年には786市757町184村、総数1,727と約半数になっています。(以上総務省HPより)

須坂市は1954年(昭和29)4月1日、須坂町、豊洲村、日野村の1町2村が合併して誕生し、今年は70周年を迎えます。それ以前、1922年(大正11)に小山村(穀町を除く)、坂田村、1936年(昭和11)に日滝村は既に須坂町と合併していました。現在の須坂市の市域になるのは1971年(昭和46)に東村が合併してのことになります。
今回ご紹介する史料は(市川喜太郎家文書)は、明治の大合併が進められる中で、旧豊丘村と小山村・坂田村が合併分離を繰り返したことを示したものです。
※須坂市誌第2巻第Ⅰ編第9章第1節「行政区の変遷」に詳しく記載してありますので、市誌もご覧ください。

【建議書】
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【読下し文】
建議書
本月二十五日上井郡豊丘村の内園里を分離独立せしむること建議決議に対し其の尽さざる処往々あるを以って、更に別紙の通り本村会の決議を経て県参事会へ意見書並びに理由書を以って陳情いたしたく候間此の段建議及び候也
                     上高井郡豊丘村会議員
 明治三十一年四月二十八日  建議者 宮本幸右衛門 印
                     同上  坂田茂作 印
                     同上  羽生田兼吉 印
                     同上  青木愛太良 印
                     同上  市川佐次右衛門 印
                     同上  小林重治良 
    上高井郡豊丘村会議長 原平右衛門殿 

建議書
謹みて町村制の主旨を案ずるに、此の制や分権の主義により行政事務を地方に分任し国民をして公同の事務を負担せしめ、以って自治の美を全くたからしめんとするにあり。故に地勢人情古来の沿革人民政事上教育の度に鑑み、地方自治の区を造成せざるべからず。区は素と国の一部分にして、国は区の団結に依り、区は人民の団結によりて初めて平和を保て一区一国の増進するものなることを信ず。
抑も(そもそも)当豊丘村は旧小山・坂田・園里三か村合併の村落にして山脈蜿蜒(えんえん)其の中央に突出し、園里と坂田・小山の両部を両断し,夫れより以東園里は東北西の三面山脈囲続し、南の一面は灰野川の大澤を界して仁礼村に接し、地勢自然両部に分かれ一見別村の観あり。然して部落の延長(人家・距離)二里半余に及び、両部の人民互いに往来すること稀なるを以って親密の交際を為すことを得ず。為に独り地方感情のみ旺盛にして形式上一村を組織すと雖も精神上に於いては殆んど豊丘村なきなり。其の弊や村の立法行政に参与するものと雖も往々公利公益に着眼せず、唯だ地方の小利害にのみ汲々として一村の公利を見ざることあり。之れを以って常に村内一致和合することなし。斯(か)く地勢を殊にするに元因して人情風俗及び生活の度に差を生じ、隨て(したがって)其の利害を異にするを以って両部の人民団結の力に乏しきのみならず、自然軋轢の弊を免れず。故に常に自治の美風を挙ぐること能わざるのみならず、尚お益々其の弊を増長するの傾きあり。実に浩歎(こうたん)に堪えざる処なり。今に於いて之れを救済するの道を構ぜざれば、其の極み将来如何なる悲境に陥るや、亦た測る可からず。熟々推考するに之を救済するには其の地勢人情風俗及び其の利害を異にするものを割き、之を同じうするものを合同せしむより外なきなり。則ち園里を豊丘村の内より分離し、独立の一村たらしむるにあり。然らば則ち之より一村団結して平和を保ち、真に自治の実現を満たすることを得、延べて衆庶臣民の幸福を増進し隣保団結の旧慣を存し、益々之を拡張することを得ん。之れ則ち町村制の主旨を遵奉し、之を実行するものなること固く信じて疑わざるなり。依って別紙陳情書相添え此の段謹みて建議仕り候也
    豊丘村会議員
         建議者 宮本幸右衛門
          同   坂田義作
         賛成員 羽生田兼吉
          同   青木愛太郎
          同   市川佐治右衛門
          同   小林重治良

分離請願書
       長野県上高井郡豊丘村大字園里    人民一同
謹みて案ずるに当豊丘村は旧小山・坂田・園里の三か村合併の村落にして、山脈蜿蜒(えんえん)其中央に突出し夫れより以東園里は東北西の三面山脈囲続し、南の一面は灰野川の大澤を界して仁礼村に接し、地勢自然両部に分かる。部落の延長二里半余に及び東西両部の人民互いに往来すること稀なるを以って、親密の交際を為すことを得ず。為に独り地方感情のみ旺盛にして式形上一村を組織すると雖も精神上に於いては殆んど豊丘村無きなり。其の弊や村の立法行政に参与するものと雖も往々一村の公利公益に着眼せず、唯地方の小利害にのみ汲々として一村の公利を視ざることあり。是を以って常に村内一致和合することなし。
一水利の件 園里は其の南端を流るる灰野川の水を其の上流より堰き入れ、或いは処々の湧水を以って飲用及び灌漑に供す。然れ共灰野川の沿岸は天然高層の断崖をなし、為に洪水の際と雖も其の害を蒙ることなし。小山・坂田二部落の如きは灰野川の下流米子川と合して市川となる処に於いて其の水を引き入れ、之を以って諸般の用を弁ず。然るに米子川の溢水に際しては、其の水勢直瀉(ちょくしゃ)其の部落の東端に突入するの患いあるを以って水防の為め偉大なる堤防工事を施さざるべからず。従って之が為め漠大の費用を要し、以って費用を一村の負担として賦課せしに元因して既に園里部落よりは該堤防費に関する村税賦課取消請求の訴願を提起するに至れり。之れ其の地形上自然利害を殊にする一例なり。
一学校の件 校舎は村内二校あり。一つは園里学校と称し其の部落に属し、一つは小山学校と称し小山・坂田の二部落に属す。
園里学校は明治六年の創設にかかり、小山学校の支校たり。其の後同八年地形風俗及び村の資力上独立の一校たるべきものなる事を認められ独立して競進学校と名称す。次いで同二十二年町村制発布に際し地形風俗の如何に関せず小山に合併せられ、又々小山学校園里支校となれり。其の後明治二十四年文部省令第十二号発布以来又た独立して園里学校となる。是れ地形及び人情風俗上当を得たるものと云う可し。
一民業の件 園里部落は山間に介在する僻陬(へきすう)之地にして居住人民平常の生業は耕作及び牧畜を以って専らとし、傍ら伐材及び薪炭を販く。然して小山・坂田二部落の内には従来町形を為す処あるのみならず、須坂町に接続し、或いは之に接近するを以って商業を専らとし、農桑の如きは之を副業となすに過ぎず。故に自然其の人情風俗及び生活の度を異にするは平常執る処の生業の然らしむる天然免かる可からざるの理ならん歟(や)。
一沿革 明治八年灰野・大日向・坂田三村の境界確定せざるにより、協議上合併し、園里村と称し来たりしも、元来灰野・大日向と坂田とは其の地勢及び人情風俗慣習等各異なり、常に衆議折合わざること多く、村内の理事百般不都合により明治十五年村内協議の上、其の境界等を限定し遂に分村を請願し認可を得て、大日向・灰野を以って園里村と称し、坂田を坂田村とし分離することとなれり。夫れ如斯(かくのごとく)屡々(しばしば)合併して屡(たびたび)分離するに至るもの因として其の地勢は勿論平常の生業及び生活の度に差あるのみならず、其の利害を異にするの結果に出づるや炳然(へいぜん)たり。然るに其の後明治二十二年町村制発布に際し亦々園里・坂田・小山の三村を合併して豊丘村と称し今日に至れり。之れ実に其の区割り当を得ざるの処置にして爾後互いに軋轢し擾々(じょうじょう)止むことなき所以なり。
以上列記する処は豊丘村内に於ける園里が他の二部落と地形及び人情風俗其の利害得失の関係を異にし、一村の平和を保つこと能わざる元因の主眼なるものにして、其の他道路工事或いは衛生に関する件等を甫め(はじめ)として、一事件起こる毎に相争い人民は互いに相集会して争迎を攻究する等、是れが為に六百戸の人民一ヵ年毎に五日の日子(にっし)を費やすとせば、其の日数三千日にして一日三十五銭と積算すれば実に壱千五十円の巨額となる。其の他有形無形の費用幾何なるや知るべからず。盖(けだ)し軋轢の極み今日に至りては地形及び民業上、自然人情風俗利害を異にするのみならず多年の感情之に伴うあり、日一日軋轢の熟度を嵩(たか)め其の極啻(ただ)に隣保相依るの美を済すること能わざるのみならず、遂に本村全体を荒蕪せしむるに至るやも又た測るべからず。吾輩人民たるもの実に憂慮に耐えずと雖も、地勢人情より見るも合併すべからざる村落を合併したる余弊にして依然一村を組織する以上は如何なる手段法方を講ずるも免がるるを得ざる処なり。
因って是観之我豊丘村をして自治の恩澤に浴せしむるには利害を異にするものを割き、利害を同じうするものを結合せしむるより急務なるはなし。則ち旧園里村を分離するの外千思万考するも他に良策を見出す能わざるなり。而して旧園里村は別紙に記載する如く戸数・人口優に一自治体を組織するの資格を有し、加うるに基本財産は旧来より園里の名義にて処有するものを通算すれば実に一万円以上を有するなり。顧うに旧園里を分離するも豊丘村の独立に些の影響を及ぼさざるのみならず、是れより一村の平和を保つことを得ん。故に分村は軋轢を轉(てん)じて平穏に帰せしめ、真に自治の美風を挙げしむものにして独り園里の福利のみならず、亦た実に豊丘村の福利延びて国家の利益に外ならずと。然らば則ち園里を分離するは実に目下の大急務なりと信ず。依って爰(ここ)に一同連署謹て請願奉り候也。
(別紙略)

【説明】
この建議書は大正期に豊丘村から坂田・小山村を分離して両村は須坂町へ合併し、豊丘村は旧園里村(上・下灰野、大日向)村域とすることを建議する下書きです。
建議の趣旨は、「豊丘村は小山・坂田・園里村三か村の合併村であるが、坂田・小山村は須坂町に隣接し、園里は山麗下の一部楽をなすもので、自ずから生業・人情・風俗は異なり、互いに自部落の利害のみに着眼し、一村の利害を顧みず衝突する。将来もこの風、増長し到底一自治体たるを得ないことを憂慮する。これを処する道は、園里の一部(坂田・小山)を本村より分離し、之をして一村たらしむることにある」とるすものです。
この建議により、大正11年7月11日、坂田・小山が豊丘村より分離し、須坂町に合併する町村分離合併が行われました。

※今回ご紹介した文書は、実際に(県に)提出した文書の下書きと思われますが、更にその下書きと思われる文書が2通ほど残されており、提出にあたっては慎重に文言の検討をしたことが窺われます。
また、この文書に出てくる市川(現在の百々川)堤防の改修等に係る賦課に関しては、旧町村文書に見ることができます。

【分離合併に至る経過】
keikazu

2024/04/10

『立町管公略縁起』と立町天神社

10:12:20, カテゴリ:  

もんじょ紹介№19
『立町管公略縁起』と立町天神社
(黒川真家文書から)

天神社は、菅原道真を祭神としており、天満神社や祭神の生前の名前から菅原神社などとなっていることもあり、全国に広く分布しています。
立町天神社は、現在墨坂神社(芝宮)境内にあります。芝宮境内には建御名方命と墨坂神を祀った墨坂神社芝宮本社を中心に、南側に稲荷神社・弥栄社があり、北側には養蚕神社・天神社・西宮神社があります。

今回ご紹介する文書は、嘉永5年(1852)2月「須坂 大宮司」によって出版された、立町天神社の縁起を記した文書です。表題は「管公略縁起」ですが、内題は『立町管公略縁起』となっており、記述されている内容と照合すると、これが本来の表題ということがわかります。わずか6ページの小冊子ですが、序文を須坂藩儒者の小松桐所、本文の執筆は須坂藩家老を務めた平武雄=丸山舎人が書いています。また、九明善が描く見開きの立町天神社絵図も付いています。
『立町管公略縁起』を糸口に、立町天神社が芝宮神社境内に移転するまでをまとめてみましょう。

① 立町天神社は、神仏に崇敬が篤く、大阪加番を12回も勤めた須坂藩4代藩主堀直佑(1655~1721)が、延宝年間(1673~1680)に大阪加番を2回勤めており、筑紫大宰府の社司に請い求めて、神木で新たな真像を刻み、「御舘より西北の隅に安置し祀らば須坂の繁栄たつべき」との霊夢で、領内の墨坂の地、上町辺りに堀家の産土神(うぶすながみ)として神殿を造営して祀った。これが上町天神社であった。(『立町管公略縁起』)
② その後、寺社奉行鳥居伊賀守忠孝の宝暦2年(1752)4月~同年10年(1760)3月に行われた当国一統神社御改めの節、現在の立町260番地(第3分団1部詰所辺り)にあった神明社地に移され、神明社は芝宮に移された。(立町天神棟札)
③ 安永7戌年(1778)4月3日、町内50軒余が焼失する大火災があり、立町天神社も罹災した。ご神像は無事救出され、以降土蔵を仮殿にして神事を執り行ってきた。
④ 寛政元年(1789)春、駒澤貞称らが君命を受け、同年9月、社地の拡張も行い、立町天神社を再建した。(山岸孝爾家文書・芝宮天神社神殿の墨書)
⑤ 寛政2年(1790)と弘化3年(1846)には7日間の御開帳が行われた。
⑥ 嘉永5年(1852)に菅公950年祭が行われた記録があり(『立町管公略縁起』)、近隣からの参詣客で賑わう神社になっていたことが窺える。良寛や一茶も参詣したと伝えられる。
⑦明治35年(1902)5月、菅公1000年祭が立町天満宮において盛大に催された。本殿・拝殿の修理や水屋の新築及び石柱、石垣、玉垣などの造成も行われた。当時の境内敷地は間口10間、奥行き20間あり、十数本の欅や松の大樹が覆う壮厳な宮であった。
⑧ 明治39年(1906)神社統廃合の勅令により、建造物の一切が芝宮境内へ移転した。跡地は都市計画道路屋部線となって、史蹟の名を留めるだけとなった。

以上天神社の変遷をまとめると
① 上町辺りに「上町天神社」として創建される。
② 立町にあった「神明社」地に移される。神明社は芝宮に移される。
③ 安永7年(1778)火災により焼失し、土蔵(場所不明)で祭事が行われる。
④ 寛政1年(1789)立町に社地を広げて再建される。
⑤ 明治39年(1906)芝宮境内(現在地)に移される。
※②の芝宮に移された神明社は、現在稲荷社内に安置されている。(『須高』第10号「立町天満宮について」徳永隆寿氏)

【立町管公略縁起】
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2024/03/27

「確誓録」と奥田神社敷地の寄進

14:54:16, カテゴリ:  

もんじょ紹介№19(黒川真家文書から)
「確誓録」と奥田神社敷地の寄進

前回は、旧須坂藩館(陣屋)跡地などを旧藩士に払い下げたことの文書などをご紹介しましたが、今回は荒無地として旧藩士に払い下げた土地に、旧藩士たちが初代直重及び13代直虎を祭る奥田神社の創建及び招魂社の移転建立するために、共有地として取得する経過の文書をご紹介します。

明治4年(1871)の版籍奉還により旧藩の所有土地(館跡地や藩士の屋敷地・耕作地)はいったん国所有の土地になりました。その土地が明治6年以降に旧藩士などに払い下げられたことは前回の通りですが、「確誓録」は、明治12年(1879)5月25日に奥田神社創建及び招魂社移設のため、荒無地を旧藩士174人で買い上げて共有地とし、奥田神社などの境内地として寄進することの誓約書です。
「確誓録」では、一反五畝十五歩(約1,535㎡)を奥田神社敷地として、五畝十四歩(約㎡)を招魂社敷地、一町四反三畝(約14,157社へ永世作徳(小作人が地主へ納める小作料)として寄進することとしています。
確誓録を受け、同年8月に荒無地一町六反三畝十九歩(約16,200㎡)を旧藩士の地権者6人から、駒澤貞永外173人が、明治8年から22年までの15年季で買い取って共有名義とすることに同意した文書が「用書留」です。
なお、用書留には共有者174人が記名・押印しているのに対し、確誓録では178人の記名・押印となっています。

【用書留】
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【確誓録】
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2024/03/13

須坂藩館のゆくえ-須坂庁、そして払下げ津へ-

13:26:34, カテゴリ:  

もんじょ紹介№19
須坂藩館のゆくえ-須坂庁、そして払下げ津へ-
(黒川真家文書から)

須坂藩館(陣屋)跡地は、廃藩置県、版籍奉還を経て、旧藩士などに払下げられ、現在は住宅などのほか、奥田神社や須坂小学校が建てられています。その経過の一端を2回に分けてご紹介します。

大名家として14代続き、最後の藩主堀直明で終わった須坂藩大名の居場所・館(陣屋)は廃藩置県を経てどうなっていったのか、黒川真家文書に残されています。
明治4年(1871)7月14に発せられた「藩ヲ廃シテ県ヲ置ク」勅書により廃藩置県が行われ、須坂藩は須坂県となり旧須坂藩館に須坂庁が設けられました[旧松代藩領の村々(福島村、仁礼村など)は松代県に、旧幕府領(井上村、村山村など)は明治3年に中野県となっています]。藩が所有していた兵器は没収され、武器・弾薬類は東京鎮撫台第二分営が駐屯していた旧上田城まで運び、引き渡されました。
陣屋敷地に居住していた直明は版籍奉還(明治2年6月)後、既に東京へ移住していました。陣屋敷地にあった居宅など建物も「旧須坂庁御払下絵図」にあるとおり払い下げられ、次いで土地が払下げられたものと思われます。
「須坂庁之図」によると陣屋敷地の面積は二町四反四畝廿一歩(約24,268㎡)でしたが、ここから道の部分を差し引いた二町二反八畝廿一歩(約22,681㎡)を「元須坂庁御払下絵図」のとおり、36の区画に分け「構内地坪御払下取調帳」により払下げています。一区画当りの面積は19歩(約62㎡)から519歩(約1,715㎡)となっており、居住地以外の区画は荒無地(未開墾地)として士族に払い下げられました。
また、「構内地御払下取調帳」とあるように、陣屋の外にあった長屋も旧藩士に払い下げられています。

【須坂庁之図】
suzakahanntyou

【明治維新前須坂藩陣屋之図(上高井誌より)】
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【旧須坂庁御払下絵図(建物)】
haraisage tatemono

【元須坂庁御払下絵図(土地)】
haraisage tochi

【構内地坪御払下取調帳(抜粋)】
haraisagetorishirabe
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この荒無地に奥田神社などが建てられることになりますが、次回ご紹介します。

2024/03/11

文書館収集史料展示開催中です

13:26:11, カテゴリ:  

文書館館では収集史料「相杜神社文書・塩川区有文書から」を開催しています。
相杜神社(相森町)と塩川町からお預かりした史料を整理し、中から以下の通り特徴的な史料の展示を行っています。
相杜神社文書からは
1 村送り状
2 用水出入り関係(水争い)
3 相杜神社御本殿関係
4 相杜神社修繕関係

塩川町区有文書からは
1 褒詞・褒状
2 永隆寺土地関連
3 収穫地価地租・土地台帳
4 日野村大字塩川之内絵図

といった史料を展示しています。

会 期:2024年4月21日(日)まで(土・日曜日及び祝日も観覧可)
会 場:須坂市文書館展示室(旧上高井郡役所内)
開 館:9:00~17:00
観覧料:無料

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