• 長野県須坂市常盤町804-1
  • 026-214-9141
須坂市公認ポータルサイト・いけいけすざか

投稿の詳細: 「須坂村から須坂町へ」

2024/05/22

「須坂村から須坂町へ」

09:01:13, カテゴリ:  

もんじょ紹介№1中澤吉四郎家文書から
「須坂村から須坂町へ」

須坂市は昭和29年4月1日に須坂町と豊洲村、日野村の1町2村が合併して誕生しましたが、須坂が「町」となったのは明治になってからです。その経緯がわかる資料を中澤吉四郎家文書からご紹介します。

【資料1】 
A-16-1
A-16-1-2

【読下し文】
書付を以て願上げ奉り候
北第十七大区八小区
高井郡須坂村
当村の儀原因これ有り町名に換え唱え仕り度段、昨八年中書付けを以て願い奉り候処、追って御沙汰成し下され候様仰せ聞かされ、願書御預り置き成し下され候。然る処、先般地租御改正の際にも当村宅地の儀は、市街の部に御取調べ相成り、殊に収利金御県案も須坂町とお書き下げ成し下され目今(もっこん)の姿にては、町村両様に相混じ判然仕らず、間々差支えの儀もご座候間、何卒先般願い奉り候通り、速やかに町名に仰せ付けられ成し下し置かれ候様仕り度、此の段至急ご指令仰ぎ奉り候、以上。
明治九年九月十二日
右村代議人 勝山音八 印
用掛    牧新七 印
副戸長   中澤吉四郎 印
戸長    黒川孝行 印
長野県権参事 松野篤殿
前書きの趣、願上げ候に付き奥書致し調印候也
  九月十九日
      副区長 岡村覚左衛門 印

【資料2
A-16-1-7

【読下し文】
申し上げ奉り候。当処の儀、前従り須坂村或いは須坂町と呼称し、両様に相混じ来り候事、年月の久しき、其の根拠とする処得と考ふべからずといえども、旧来より町年寄・名主と両役これ有り。地方に属する事件は右名主の処務にて須坂村と唱ひ、外一切の雑務はすべて町年寄りの処務にて須坂町と唱ひ来たり。現に先般御本県へ郷村御引渡しの砌迄これ有り候儀ご座候。且つ往古より旧中野御陣屋、同中の条並びに旧松代お預かり役所等へ仰せ付けられ、立冬穀相場書き上げ候節も須坂町と認め来たり。引き続き御本県御管轄も相成り候ても、予て仰せ付けられ候物価表も是また右に倣い須坂町と書き上げ来り候儀にて、殊には御県庁より御達書ならびに御差紙等も多くは須坂町と成し下され、其の上地券書も須坂町と御書き下げ成し下され、かたがた似って目今の処にては十に八・九は町名を相用い、村名の儀は僅かに一・二位に御座候間、向後は断然須坂町と呼び称え仕り候様仰せ付けられ成し下され度候。此の段懇願奉り候。何卒格別のご仁慈を以って右願の通り仰せ付けられ成し下し置かれ候はば重々有難く仕合せに存じ奉り候、以上。

【解説】
資料1は明治9年9月12日に須坂村から長野県宛に「須坂村から須坂町と改名したい」と願い出た文書です。
資料2はその根拠とする考えを書いた下書きと思われる文書ですが、年次は不明です。
二つの史料から、須坂藩の頃から場合によって「須坂村」と唱えたり、「須坂町」と唱えたりして、まちまちであったことがわかります。明治に入って、経済政治制度などが大きく変わって、それでは不都合なことが多く出てきたものと考えられます。
昭和27年に発行された『須坂町沿革表』では、明治9年の欄に「九月其筋へ具申し許可を得て須坂町と改める」とあります。
須坂町としたい願いは、資料1にもある通り明治8年には既に改名の願い出をしています。明治8年は、須坂の製糸業が盛んになりだす頃です。8年5月には日本で初めての製糸結社である「東行社」が設立されました。9年になると加入者は40人余、工女ら従業員は600人に達したとあり、町全体に活気が出てきた時で、そうした時代背景も反映したものと考えられます。

【須坂町沿革表】
enkakuhyou