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投稿の詳細: 米子鉱山開発はこうして始まる-宝暦年間の場合-(竹前源治家文書から)

2024/02/28

米子鉱山開発はこうして始まる-宝暦年間の場合-(竹前源治家文書から)

11:53:43, カテゴリ:  

もんじょ紹介№15
米子鉱山開発はこうして始まる-宝暦年間の場合-(竹前源治家文書から)

日本は火山が多くあり、各地で硫黄が採れました。
硫黄は古くは炬火・燃料、薬用・農薬などに使われ、続日本紀に信濃国の調(租税)として硫黄が納められたという記録があります。その後中国で黒色火薬が発明されると、火薬の原料として中国(宋)へ輸出され、日本でも鉄砲が伝わると国内での需要も大きくなったものと思われます。
米子での硫黄の採掘は、寛永2年(1624)には行われていたとされ、その後採掘者は様々変遷し、昭和35年(1960)に中外鉱業が硫黄採掘を終了するまで採掘が行われました。硫黄の採掘終後は蝋石、ダイアスポーア(共に耐火物などに使用)の採掘を行っていましたが、1973年(昭和48年) 米子鉱山は全面閉山となりました。
須坂市において硫黄の産出は、昭和初期に製糸業の衰退を補う産業として大きな役割を担い、昭和18年には須坂駅まで索道が延長され、須坂駅には引き込み線ホームが建設されました。
今回ご紹介する文書は、米子村役人が硫黄採掘請負いにあたり、坂木代官所に提出した文書です。

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【読下し文】

硫黄山ご運上           信州高井郡米子村
一 右硫黄山古来何年以前よりご運上山に願い奉り候や始めあい知り申さず候。尤も寛永年中より段々お請負人諸々より罷り出で候由、申し伝え候おん事
一 御留山に罷りなり候義は、古来より度々ご座候由、是は右ご運上糴上に罷りなり、その上洪水の節山崩れ等仕り、硫黄堀場押し埋め、或いは硫黄下直、扶持米高直にて稼ぎに罷りならず、お請負人ご座無く候ゆえ、お留山に仰せ付けられ候。近年お留山に罷りなる義ござ無く候おん事
一 硫黄出方の儀、弐千貫匁位より七千貫匁位に出申し候。尤諸道具其の外諸掛り失却多く相懸り申し候。硫黄石に善し悪しこれ有り、又は年により普請相懸り申し候。尤普請多く相懸り申さず候と之の訳にて増減ご座候御事
一 硫黄売り方の儀は、所にて同国の商人へ売り渡し申し候。その外同国松本辺り・松城・善光寺・須坂・中野・飯山の辺り市場へお請負人方より遣わし売り申し候。直段の義金一両に付き二十貫目位より四十貫匁位仕り候。時々に相場相替り、高下ござそうらえども、相定まり候儀はござ無く候おん事
一 硫黄掘り様の義は鷹目硫黄は金山銅山などのことく間歩を付け、六百間余り掘り入れ申し候へ共、当村硫黄山の義、総て鷹目は出かね申し候。すべて硫黄石割り取り焼き硫黄仕る。右の致し方は水最寄り悪しき所は掛け樋を仕り最寄り能き所は直に水を引き流し普請仕り、硫黄石洗い出し、搥・石鑿にて割り落とし釜をこしらえ焼き申し候。釜数は人足の多少に応じこしらえ申し候。当時は、釜五つこしらえ置き申し候。堀り子人足の儀は年々増減ござ候え共、二十人位より五十人程の間の人数にて、雪国ゆえ山内雪明け次第四月節より山入りなし仕り、十月節まで山内に小屋をかけ硫黄掘り候内は居住仕り罷りあり。尤も用事これ有の節は、下り上がり仕り候。当時二間半の梁に五間小屋一か所、二間梁に五間の小屋壱か所、三間梁に六間の小屋壱か所、九尺梁に二間半小屋壱か所等ご座候御事
一 硫黄掘り候人足、毎年四月節より十月節まで右小屋に罷りあり、掘り申し候。深山に候えども、雪積もり申さず候年はケ成りに十一月の頃まで罷りあり、あい稼ぎ、尤も冬登り申し候節は弱人足は働き致しかね候に付き、達者なるもの計り集め、小勢にて登り申し候御事
一 居村より硫黄小屋まで道法り三里小屋場より硫黄掘り場まで道法り一里ご座候事

右の通りお尋ねに付き村役人立会い吟味仕り少しも相違なく書上げ申し候、以上
                            高井郡米子村
 宝暦三年酉七月                   名主 半治郎
  坂木                          与頭 助右衛門 
   御役所                        同  甚兵衛
                                同  兵右衛門
                               百姓代 地右衛門

(参考)
米子鉱山等に関する主な事項

        

        

西暦 事項
1624 寛永2 米子村にて硫黄を掘り始める
1704 宝永1 米子村の竹前源次郎が米子鉱山の硫黄を掘る
1719 享保4 米子村の竹前権兵衛が硫黄を採掘し幕府に献上する
1721 享保6 井上村の源兵衛が30両の運上金で硫黄の採掘を請負う
1729 享保14 灰野村の善右衛門と米子村の小平治の共同で硫黄請負う
1749 寛延2 井上村の仁右衛門が18両出で硫黄採掘を行う
1751 宝暦1 江戸神田旅籠町の小松屋藤吉及び米子村の半次郎が硫黄採掘を請負う
1753 宝暦3 半次郎が運上金8両を納めて硫黄採掘を請負う
1764 明和1 米子村の銀右衛門が硫黄採掘を請負う
1780 安永9 竹前源次郎が7か所(泉坑、滝頭坑、沢場坑、大黒坑、和合院坑、恵美須坑、屋源田坑)の硫黄を採掘する
1893 明治26 米子鉱山沢場抗の経営が藤森弥作から東京市の中北福松に移る
1894 明治27 石川家僧侶日野忠貞が竹前源次郎より権利を買受ける
1896 明治29 四阿山大洪水で死者多数、鉱山施設ほとんど流失する
1898 明治31 米子鉱山沢場抗火災で60日間の営業停止
1902 明治35 須坂硫黄株式会社が解散し、信濃硫黄株式会社設立される
1903 明治36 米子硫黄会社を横浜の山下亀三郎に譲渡する
1913 大正2 2月7日落盤事故で18名死亡
1934 昭和9 米子鉱山を中外鉱業株式会社に譲渡する
1943 昭和18 索道が須坂駅まで延長、引き込み線ホームが建設される
1944 昭和19 須坂駅引き込み線ホームに、高井鉱山、横手鉱山、米子鉱山共同の貨物積込所ができる
1952 昭和27 落盤事故により2名死亡
1960 昭和35 硫黄鉱山閉山。蝋石、ダイアスポーアの採掘は続く
1973 昭和48 米子鉱山全面閉山となる