もんじょ紹介№21
堀恭之進上京猶予伺(市川幸夫家文書から)
前回に引き続き、直虎自刃後、恭之進への家督相続に向けた活動の一端を示す文書をご紹介します。
この文書は汚損が激しく、肝心の部分の詳しい内容は読み取りにくい文書です。意訳してみると、本来ならば上京して言上すべきでありますが、「関東脱走の歩兵500人程」に対する飯山藩主 本多豊後守から援兵の要請があり、人数を派遣している(飯山蓮村出兵のことと考えられる)。また、須坂藩内へ賊徒が侵入するかもしれず、人数を用意しておかなければならない。よって、東山道鎮撫隊総督府に派遣する人数が不足し、心配なので「しばらく状況を猶予してほしい」。また、「御一新後は近領と申合せ尽力勉励する」と重臣(江戸家老)清州平馬の名で願い出ています。
この後、堀恭之進は5月14日、新政府から堀家14代としての家督相続が認められ、直明を名乗ります。
なお、あとがき部分は「御用があるので、明15日四ツ時(午前10時頃)詰所(出頭の意)」と読めますが、どのようなことかはこの文面だけではわかりません。
【上京猶予伺文】
【読下し文】
堀恭之進儀、かねて家来の者より伺いのとおり、早々上京仕るべく存じたてまつり候ところ、近領本多豊後守より使者を以って在所信州須坂へ申し越し候は、関東脱走の歩兵500人程越後国新潟に屯集罷り在り、それより信濃国へ差し向かい候趣き、飯山表通行致すべく様子に付き、援兵の儀頼み申し越し候間、人数差し出し候、且、領分へも差し越し候や計りがたく、それぞれ人数用意手配仕り候、[ ]上東山道鎮撫御総督府[ ]何分人少なく手配引き足り申さず心配仕り候、[ ]ク上京御猶予願い奉り、御一新の御場合厚く相心得、近領申し合わせ尽力勉励仕り度存じ奉り候、之により重臣家来の者を以ってご内慮伺い奉り候、以上
堀恭之進重臣
慶応4戊辰年4月28日 清須平馬
ご剪紙拝見いたし候、しからば御用の儀ござ候に付き、明15日4ツ時、御詰め所□□出旨畏れ奉り候、右御請け申し上ぐべく為、かくのごとくござ候
【参考:相続までの主な出来事】
年 | 月日 | 概要 |
慶応3年(1867) | 10月14日 | 大政奉還 |
12月5日 | 直虎若年寄兼外国総奉行に任じられる | |
10月9日 | 王政復古の大号令により新政府樹立 | |
慶応4年(1868) | 1月17日 | 直虎自刃 |
1月18日 | 病気と称して退出 | |
2月15日 | 直虎病気退職を願い出たが静養申し渡される | |
2月17日 | 太政官へ恭之進養子願書提出する | |
2月28日 | 直虎卒去を発表 | |
3月7日 | 丸山兵衛次郎、諌死に至った状況を勤皇とした「口上書取之覚」を明治政府に提出 | |
3月8日 | (朝廷に)恭之進へかとくそうぞくを願い出る | |
3月10日 | 諌死の次第を名古屋藩に届け出 | |
3月12日 | 武州桶川へ出兵 | |
3月24日 | 家督相続について最速願い出る | |
4月 | 丸山兵衛次郎、尾張大納言に差出し、上京。岩倉具視に内覧の上、御家督願書を太政官に提出する。 | |
閏4月15日 | 内閣局より総督府参謀に直虎の死因調査命じる | |
4月20日 | 北陸道出兵 | |
4月28日 | 恭之進上京猶予願いを出す | |
5月4日 | 総督府参謀より内閣局に諌死相違なき旨回答 | |
5月14日 | 太政官により直明(恭之進)家督相続が認められる | |
7月18日 | 中野五郎太夫、竹中清之丞藩命に随わず切腹(斬首) | |
9月8日 | 明治と改元 |