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投稿の詳細: 恭之進御礼に付伺い

2024/01/24

恭之進御礼に付伺い

13:18:12, カテゴリ:  

もんじょ紹介№21
恭之進御礼に付伺い(市川幸夫家文書から)

1868年(慶応4)1月17日(新暦では2月10日)、須坂藩主 堀直虎は江戸城中で徳川慶喜に諫言し、自刃してから156年が経とうとしています。
264年続いた徳川家による江戸幕府が大政奉還し、今後どのようになっていくのか見通せない時代に、藩主の自刃という一大事に藩の存続に向けた取り組みの一端が窺える文書を2回に分けてご紹介します。

恭之進の家督相続が新政府に認められたのは慶応4年(1868)5月14日ですが、須坂藩ではまず内蔵頭直虎を病死として旧幕府に届け、恭之進の相続を願い出たと思われます。須坂藩では中野五郎太夫を通じて旧幕府若年寄衆に御家存続の助力を働きかけていたものと思われ、この書状から若年寄からの内示があったことが窺われます。
中野五郎太夫は須坂藩内佐幕派の筆頭格であって、藩論を勤皇路線に統一することに激しく抵抗しています。藩主直虎・恭之進(直明)の側近ながら自説を曲げず、直明からの越後出兵隊長への就任要請を拒否し、切腹を命じられています。

【伺い文】
onreiukagai

【読下し文】
堀内蔵頭願い置き奉り候通り相続仰せ付けられ、遺領相違なく恭之進へ下し置かれ、有難き幸せに存じ奉り候、右御礼若御年寄様方へ廻勤の儀、病気に付き名代を以って申し上げるべきや、又は使者を以って申し上げ候て宜し御座候や、此の段伺い奉り候、以上
  堀恭之進家来
    中野五郎太夫
 二月二十九日 

【概要】
堀内蔵守の願いのとおり家督相続が命じられ、遺領が間違いなく下されたこと、ありがたく思います。その御礼に若年寄の皆様に御礼に伺うべきところですが、(恭之進)病気のため名代をもって挨拶すべきか、使者をもって挨拶すべきかお伺いします。
重臣中野五郎太夫の名で、(若年寄へ)出されています。