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投稿の詳細: 昔、百々川は落合で合流していた

2023/12/06

昔、百々川は落合で合流していた

15:54:02, カテゴリ:  

もんじょ紹介№4
昔、百々川は落合で合流していた(九反田町区有文書から)

九反田区は、市川(現在は百々川という)と鮎川が落ち合う地域にあります。集中豪雨に襲われると、一気に水かさを増した洪水が集落の周りの堤防を壊して区内に流れ込み、田畑や家屋に甚大な被害をもたらし、さらには境を接する中島・井上・福島方面にも被害を及ぼしてきました。
この市川・鮎川の二つの川は、太古から洪水を繰り返しながら流路を変え、以前には別々に千曲川に流入していた時期もあったようです。それがいつ合流するようになったかは不明ですが、九反田町区有文書によると、正徳から享保・延享年間(1711~1747)の絵図では、中島区との境界の合流点市川に合流しています。そこへ合流する福島からの流路に百々川と記名されています。なぜでしょう。
享保9年(1724)7月の絵図では、落合で鮎川が屈曲して北方向の流路に流入するように瀬割がされています。このことから本流は北に向かう流路であったが、洪水の時だけは本流だけではさばききれずに、膨れ上がった水は南の流路を逆流して福島方面へ向かったものと考えられます。
百々川が北の流路1本になったのはいつ頃のことでしょう。文政10年(1827)5月の絵図にはすでに南からの流路は描かれていません。九反田の集落を洪水から守るために、鮎川の流水を瀬割に沿ってスムーズに北の流路に向かわせるように仕向けたものと考えられます。
九反田村には鮎川の洪水から村を守るために村を取り囲む土提があり、その一部が落合から南の流路に向かって築かれていました。流路が北に向かう川筋で固まったことで、はたして九反田村は洪水の難から逃れることがきたのでしょうか。
文政2年(1819)の「為取替申一札之事」によると、「中島と九反田の地境にあって鮎川の南の方、古百々川筋は先年より川筋跡になっているが、両村の土提の間には堤防がない。そのため鮎川の川床に堆積した石砂が年々高くなり、小洪水でも土提を超えて田地に浸水し苦労している。中島村土提から九反田村土提の間、28間(約50m)に小堤防を築いて浸水を防ぎたい。」と中島村側に相談を持ちかけました。しかし中島村からは大水の際には南の方、旧百々川に水を開かなければ家屋に被害が出ると築堤に反対、両村で改めて相談した結果、両村で28間の場所に川床に沿って川幅に高さ2尺の堰を設け、大水の際にそこから水を開くことを申し合わせています。
このように南からの流路が閉ざされ「古百々川」と称するようになっても、九反田村にとって鮎川筋の浚渫作業の続行と古百々川の川幅に堤防を築くことが、依然として必要でした。
その後、百々川が現在の川筋に移行してからは、古百々川筋に再び水路は開かれませんでしたが、往時の流路の跡が中島区と井上区・九反田区の境界に沿って残されています。

(かつての流路推定図)
azakirizu

(享保9年7月絵図)
kyouhi9.7

(文政10年7月絵図)
bunsei10

(九反田村と中島村が取り交わした文書)
issatu1
issastu2

【読下し文】
取替し申す一札の事
一 中嶋九反田両村地境鮎川落合南の方、古百々川筋の左右、先年より川筋跡へ中嶋村土提より九反田村土提まで、長28間の間水除けござ無く候ところ、鮎川筋石砂押し埋り、蓮々高く相成り、小水にても両村お田地へ水押入り難儀に付き、九反田村にては右場所へ小堤相仕立て小水凌ぎたき旨、中嶋村へ相談に及び候ところ、中嶋村にては右場所に小堤これ有、大水の節南の方へ水相開き申さず候ては、住居難儀に付き、字並柳まで一統ご普請仰せ付けられ候儀これ有り、殊に明和5子年両村出入に及び候、済口証文並びに其の節、中嶋村より井上村へ書面差出し置き候訳もこれ有る間、小堤には相成り難し気に付き、此度両村相談の上、双方に右28間の場所川床に川幅に随い高さ2尺、相仕立て水除けいたし、大水の節は右場所より水開キ候様にて村相心得え申すべく候。いらい河筋高く相成り候か又は変地に相成り候節は、双方示談の上立会い差支えに相成ざる様致すべく、右の趣き両村及示談候上は重ねて違変仕りまじく候。これに依り取替せ一札件のごとし。

文政二年卯六月
九反田村
名主  喜三郎 ㊞
               組頭 甚左衛門 ㊞
               百姓代 栄治郎 ㊞
中嶋村
               名主 六兵衛 ㊞
               同断 嘉藤 ㊞
               組頭 六郎右衛門 ㊞
               同断 平右衛門 ㊞
               百姓代 栄七 ㊞
               同断  八郎左衛門 ㊞