んじょ紹介№10
苦しむ福島宿 -賄い金未払分の支払い願いを出す-
明治維新直後(明治元年・1868)の戊辰戦争や中野騒動(明治3年)が起きたころ、北國街道ぞいの福島宿は、官軍や松代藩の兵隊が立ち寄り、昼食や夕食の「賄い」のほか「草鞋(わらじ)」の準備などで大忙しでした。
ところが、賄いの支払いは即金ではなく「ツケ」で処理されていたため、支払いが滞ってしまい、不払い金の回収に苦慮することとなりました。何度も御下げ金(支払金)を催促しましたが、思うに任せなかったようです。
【長野県に提出した未払金内訳書】
【書下し文】
記
一 九拾九賄 御官軍
代銀四百七拾匁二分五厘 岩村精一郎様
御賄〆
一 四百六賄 尾州様御賄〆
代銀一貫九百二拾八匁五分
一 八千七百九拾賄 元松代藩御賄〆
代銀四拾壱貫七百五拾弐匁五分
一 草鞋百七拾八束 草鞋入料〆
代銭壱八貫九百文
此銀百拾三匁四分
去ル辰年分(明治元年分)
合銀四拾四貫に百六拾四匁六分五厘
為金七百三拾七両弐分弐朱、銀七匁一分五厘
内
金四百両 去ル辰年中
御下金相成候・・・明治2年に支払われた分
引テ金三百三拾七両弐分弐朱 銀七匁壱分五厘・・・未払い分
一 千八百拾二賄 中野須坂管下村々騒擾
事件ニ付元松代藩
御人数御賄〆(〇中略)
一 草鞋百八拾五足 右同断草鞋〆
(〇中略)
去ル午年分(明治3年分)
合銀五貫五百三十八匁
為金九拾弐両壱分 銀三匁
二口
合金四百三拾両 銀弐匁六分五厘・・・明治元年と3年分を合わせた未払い分
右者去ル明治元辰年北越御戦争之節御賄
幷一昨午年中野県村々騒擾事件ニ付
御賄所取調奉書上候間、出格之
御情ヲ以御下金被成下置候様、乍恐此段奉願上候、以上
明治五壬申年四月九日 福島村
名主 華井定之助
組頭 横田利右衛門
同断 丸山忠右衛門 印
百姓代 大峡治郎右衛門
同断 丸山忠兵衛
長野県
御役所
【解説】
冒頭の官軍岩村精一郎には99賄(99食分)、やはり官軍の尾州(尾張藩)の一隊には406賄、松代藩にいたっては6,790食分の賄いを提供しました。
この準備はてんてこ舞いであったと思われます。福島宿の宿を挙げての接待でした。
にもかかわらず、明治5年になっても未払い分が支払われず、明治元年分の賄い金の半分近くが未払として残されていました。明治3年分を合わせると430両余(1両6万円として換算すると2,580万円)にも上っていたのでした。宿駅の存亡にもかかわる重大な問題でした。
この間、明治4年には廃藩置県によって松代藩はなくなってしまうという不安定な社会状況の下で、福島宿を抱える福島村民には頭のいたい事でした。
※岩村精一郎(高俊)
土佐藩士。戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。維新後、佐賀県権令、内務省の大書記官、石川、愛知、福岡、広島の県令や知事を歴任、明治25年貴族院議員