信州須坂移住支援チーム - 「須坂市に住んでよかった」 「須坂市に住んでみたい」と思える魅力的なまちを目指しています。
信州須坂移住支援チーム
カテゴリ: インタビュー記事
2023/03/20
須坂キラビトvol.9「ヴィーガンという“選択肢”」
地域おこし協力隊の北直樹(自称のーす)がお届けする連載「須坂キラビト」は、須坂市に関わるキラリと光る情熱を持つ人をテーマに、活動のきっかけ、これまでの苦労や未来の活動についてもお話を伺います。
第9回目は須坂市相森町の小山美和子さんを取材しました!
※小山美和子さん ソルガムマルシェ出店時の様子
小山美和子さん 須坂市出身
本職ヨガインストラクターをしながら「♥HUG♥vegan is love」としても活動中。幼いころから食べ物やモノづくりの過程に興味があり、当たり前に食事していたものに疑問を持つようになる。10年ほど前からヴィーガンとしての活動を始め2020年よりヴィーガンマフィンをはじめとした焼き菓子販売をイベントで始める。1児の母として子育てにも奮闘中。
【ヴィーガンとの出会い】
———須坂に来て美和子さんに会って、ヴィーガンを知るきっかけになりました。まずヴィーガンとは何か改めて教えてください。
『“ヴィーガン”は簡単に説明すると、動物の虐待を反対する・動物から搾取をしないっていう、脱搾取主義のことなんです。単に食べることだけではなくて、環境・健康についても同じで、例えば動物性の化粧品を使うことも避けています。私達ヴィーガンは動物の命を奪って食べたりするのはもちろん、ハチミツのような、ハチが生きる過程で作った物も“人間が搾取”することになるので食べないようにしています』
※お店の看板となっているHUGのロゴ
———なるほど。ヴィーガンをはじめたきっかけがあったんですか?
『小さい頃から何でも簡単に信じず、ひねくれていたんです(笑)そういった性格からか、当たり前にあったものも「これはどうやってできているんだろう」と考えるのが好きでした。 逆に言うと“教科書に書いてある“という考え方が嫌いで、自分で調べてみないと本当のことは見えないと思っていました。もともとはお肉も普通に食べてたんですけど、ある時、このお肉はいったいどんな過程を通ってここに来たんだろうって考えるようになって。そこで、動物たちがとても辛く苦しい思いをしていることを知って、この活動を始めたんです』
———そんな出会いだったんですね。最初からスムーズにヴィーガンの生活に入れたんですか?
『最初は人前ではお肉も食べていたし、自分の中だけの活動としてやっていました。お肉だけ避ければいいやと思っていたんです。でも調べていくと動物性のものって結構多く使われていて、避けることが大変なことに本当に落ち込みました。あれもダメ?これもダメ?って。でも次は、その代用は何で出来るだろうって考えたらむしろそれが楽しくなって、数年前から完全にヴィーガンとして動物性のものを経ちました。でもそれは周りへの押しつけとかではないし、食文化は自由なので、誰かの食生活とかを否定したいわけではないんです。
私の活動の原点である“動物たちへの想い“というのが根底にあって、その現実を知ってもらいたい。その気持ちが段々と強くなっていった結果なんです』
———でもほとんどの人は動物性のものを口にしたりしていて、なんだか難しそうな感じがします。少しでも興味のある方はなにから始めたらいんでしょう?
『私がそうだったように、最初は週1回月曜日だけやろうとか、おかずの1品からはじめるとかだけでいいと思っています。一番大事なのは動物たちが辛い思いをしているという、その過程を知ってほしい。動物だけがそんな辛い思いをしていいはずがない・・・っていうのが私の考えなんです。だから食べ物だってもっと多様性になっていいと思うんです。日本も欧米みたいに菜食主義の子がいたり、ヴィーガンが居たりして。最近は全国のファミレスでもヴィーガンメニューが増えてきて、須坂でも「おやつとごはんの店 ai」さんではヴィーガンメニューも食べれます。そういった”選択”ができるお店も増えていくと嬉しいです』
———確かにそういう“選択”はもっと出来てもいい気がします。美和子さんが今ヴィーガンを広める活動として「Hug」のマフィンを始めとした焼き菓子の販売があります。いつもイベントでも完売していて、私も大ファンです(笑)はじめたきっかけを教えてください!
『最初は本業のヨガでヴィーガンを知ってもらいたいと思っていて、興味のある方にだけ広める活動をしていました。でも、そのうちに熱い気持ちが抑えられなくなって、もっと早く広めたいと思ったんです。そう考えた時「ヴィーガンの人は美味しくないものを食べている」って思われるのが嫌だったのもあって、“美味しい”食べ物で広げたいと考えました。身体に良くて美味しいスイーツをヴィーガンで作って広めれば興味の無い人も足を止めてくれるし、言葉を覚えてくれる。何より美味しければ実践してくれるだろうなって思ったんです。スイーツ作りが好きで始めたわけではないんです(笑)』
※卵、バター、はちみつなどを使わなくても美味しいマフィン
———ヴィーガンであんなに美味しいマフィンが出来るってイメージがなくて。いつも色んな味もあって楽しいです。
『バターとか乳製品、卵も使わなくても美味しく出来るんですよ、それに商品はグルテンフリーなんです。でも、ここまでの商品に仕上げるのにはかなり苦労しました。味もなかなか安定しなくて、マフィンを販売して2年になるんですけど、ここ半年くらいでやっと納得した味に仕上がってきました。オーガニックにもこだわりたかったんですけど、どんどん原価が上がってしまい、消費者に届かなかったら活動の認知も広がらないので意味がないなと思って、グルテンフリーとして販売しています』
———身体に優しいマフィンって最高です!何を一番変えて味が安定したんでしょうか?
『今までは前日仕込みの前日焼きだったんです。そうすると皆さんが食べるころには米粉がホロホロになって、美味しくなかったんです。それに気が付いて、当日の朝焼くことにしたんです。そうすると、焼き立てを保ったままで納得のいく味になったんです。やっぱりグルテンフリーで米粉にはこだわりたいし、米って日本人の身体に合うと思うんです。米粉で本家のマフィンを超えたいって本気で考えています』
———そんな小さなことでも味が変わるんですね。私はずっと美味しいと思っていました
が・・・そういう探求心が強いところが美和子さんらしいなと思います。
『そうなんです。結局マフィンにもこだわってしまって・・・私のここまでの原動力は何かへの“反抗”なんです。小さい頃からずっと反抗期が続いている感じです。なんで!どうして!っていつも思っていて・・・私ってめんどくさいですね(笑)』
———私個人的には須坂市の環境はヴィーガン生活に向いていると思うんですが、いかがでしょう?
『ずっと須坂の人間なんで外の文化を知らないんですが・・・でも、このエリアは元々肉や魚が食文化だった場所ではないと思うんです。須坂はキノコを始めとした野菜、果物、穀物、味噌の文化があってヴィーガンに適していると思います。私も須坂や高山村を中心に認知を広げてきたので、私の地元ではヴィーガンって言葉が特別じゃないナチュラルな言葉になってほしいですね』
———環境が整った須坂から全国に広がっていくと面白いし、いいモデルケースになりそうです!最後にこれからの活動やヴィジョンを教えて下さい!
『ここ2年は“食“に専念してきたので本職であるヨガとも絡めたこともやっていきたいです。あとは”レシピ公開”です。何を使っているかというところをもっとプッシュしていきます。アレ使ってません、コレ使ってませんばかり言っているので、じゃあ一体何が入っているの?って不思議に思いますよね(笑)ヴィーガンがもっと馴染みやすいものになってほしいし、料理の実践的な発信や料理教室もしていきたい。子育てメニューも勉強中なんです。チャレンジショップでレストランもやってみたいな・・・芋煮とおにぎりで一緒にやりませんか?(笑)』
———いたずらっぽく笑って夢を語ってくれた美和子さん。この人なら全部やっても不思議ではないし、数年後には須坂でヴィーガンが選択できることが当たり前になっているかもしれない。
美和子さん!長時間インタビューありがとうございました!
一般の方にも手にとってもらいたいという思いから第3土曜日の芋煮会でも共同出店した。手前小山美和子さん、奥のーす
【ショップ情報】
https://www.instagram.com/hug_veganislove/
実店舗は無くイベント出店がメインです。毎週第三土曜日に須坂温泉古城荘でも販売中!
【ヴィーガンって?】
もっと詳しく知りたい人はコチラ!
ヴィーガニズム とはなにか
http://veganwithanimals.com/
【のーすレコメンド!】
プレーンも好きですが、チョコバナナ味も大好き36歳。
あと毎回違う味が出るので、今日は何だろうってワクワクしながら買いに行ってます(子供か!)
【のーすレポート】
美和子さんとは移住前に古城荘のショップで出会いマフィンを購入したのがきっかけだ。
その時にヴィーガンという言葉を知り、マフィンを食べた時に衝撃を受けた。卵や乳製品無しでこんな美味しいものが作れるの!?そんな世界を作れることが羨ましかった。
しかし今回のお話で私は美和子さんに新たな一面を見た気がした。
世の中で沢山のショックを受けたこと、落ち込んだこと、それを決して他人事と考えず、現実に起こっている問題で、ずっと心を痛めてきたこと。動物たちへのリスペクトや動物達を守りたいという“反抗”が美和子さんの原動力となっているのだなと。
自分はまだそういった認知も低く、全ての行動をヴィーガンにしていく事は今は出来ないけど、芋煮会でもヴィーガン芋煮を作ったりするなど小さなことを始めてみた。美和子さんがインタビューで何度も言っていた“強制”ではなく“選択”の幅を広げる気持ちでやっている。消費者である我々がどんな過程を通ってモノが消費者に届くということを知ることはヴィーガンに関係なくても大切なことで、私自信なんとなく当たり前と思っていたものも、しっかりと“知る”ということをやっていきたい。今後ビジネスをしていく上でも多様性に応えた”選択できる”というマインドも大切にしたい。 自由な中での選択って実はすごく恵まれているんだと・・・私自身、選択にしっかりと責任をもって生きたいです。
美和子さんにはマフィンはもちろん、今後の新たな活動にも期待しています! いつか一緒にヴィーガン酒場やりましょう!!(笑)
【この記事を書いた人】
北 直樹 (自称のーす)
1986年7月3日 石川県金沢市生まれ
2022年8月神奈川県川崎市より須坂市に移住し妻と二人暮らし
現在、須坂市地域おこし協力隊として活動中
趣味:レザークラフト、野球、DIYなど
好きな歌手:吉川晃司、氷室京介
主な活動:空き家バンク、信州芋煮会
夢は須坂市の特産品で6次産業の企画・開発・営業で起業すること

2023/03/06
須坂キラビトvol.8「シンシア~夢に誠実に生きる男~」
地域おこし協力隊の北直樹(自称のーす)がお届けする連載「須坂キラビト」は、
須坂市に関わるキラリと光る情熱を持つ人をテーマに、活動のきっかけ、これまでの苦労や未来の活動についてもお話を伺います。
第8回目は須坂市立町の「 Pâtisserie cafe sincere(パティスリー カフェ シンシア)」土屋裕太さんを取材しました!
土屋裕太さん
須坂市出身
日野小学校→墨坂中学校→長野日大付属高校
高校卒業後にパティシエを目指し長野市内の有名店で実戦経験を積む。
その後、東京へも舞台を変えながら活動し2023年2月に須坂市立町で「Pâtisserie cafe sincere」をオープンする。
※「Pâtisserie cafe sincere」の店舗入口ドア
———昨年度は7月から駅前施設botaやイベント出店など大活躍でしたね。土屋裕太さんの経歴を2022年の須坂市広報でも読みましたが、苦労されてここまで来たんだなと思いました。見逃した人もいると思うので改めて聞かせてください!
『あっという間の半年でした。振り返れば、結構泥臭い生き方をしてきました(笑)熱中するとなんでも一つのことしか見えなくなってしまうタイプで、中学高校時代も坊主頭で短距離ランナーとして陸上に明け暮れていました。3年生で引退し、情熱を注ぐものが無くなったときに出会ったのがスイーツ作りでした』
———坊主頭の少年がスイーツ作りに目覚めるって面白いです!出会いのきっかけは?
『もともと勉強が嫌いで大学に行くつもりはありませんでした(笑)就職するのに何か自分に出来る事あるかな・・・と考えていた時、そういえば料理を作るのが好きだったなと思い出して、有り余った時間を使って作っていたんです。そんな時、長野市の東急百貨店でスイーツフェスティバルがあって、そこで出会ったスイーツに感動し「これからはスイーツの時代が来るぞ!」と思ってパティシエを目指したのがきっかけでした。昔から単純な性格です(笑)』
———意外でした!もっと小さな頃からスイーツ作りに没頭していると思っていました。
『私の両親も特に料理やスイーツ作りに熱狂的だったわけではなく、どこにでもある家庭だったんです。でも、小さい頃から何でも“好きなようにやりなさい“と言われてきて、パティシエになると言った時も「いいじゃない」と応援してくれました。進学校に行かせてもらいながら自由にさせてもらって、感謝しかないです』
———素晴らしい教育方針で、私も参考になります。その後、どのようにしてパティシエを目指しはじめたのでしょうか?
『まずインターネットや本などで調べました。学校の進路相談にも行きましたが、進学校なので期待した答えは返ってきませんでした(笑)ここでまた単純な閃きで、「現場に聞きに行けばいいじゃん!」と思って、坊主頭の高校生が自転車で長野市内のパティシエさんを訪ね回ったんです。どのパティシエさんも忙しいのに、見ず知らずの高校生に丁寧に教えてくれました。そこで私は専門学校よりも“現場で叩き上げ“の方が自分に合っていると思い、そのまま次は就職の相談を持ち掛けました』
———いや、高校生で専門知識もないのに物怖じせずに動けるその行動力が凄い。そこで境遇が似たパティシエさんに出会ったとか?
『私のように高校時代から現場の叩き上げでスタートされたオーナーさんに出会い、坊主頭の勇気が気に入られて、就職させて頂けることになったんです。そこでみっちり基礎から叩き込まれました。考えていた以上に厳しい世界で、毎日怒られて何度も辞めたいと思いましたが、途中で逃げ出すことが嫌いな性格なので「やめてたまるか!」と思って続けました。でも、だんだんと技術をつけていくと仕事が楽しくなってきて、初めて私が作って販売したのがお店の看板商品だった“チーズケーキ”なんです。その頃の基礎は今も身体に染みついていて、感謝しかないです』
———裕太さんでも辞めたいと思ったことがあったんですね。実際にどういうところに苦労されたんでしょうか?
『専門学校に行かなかったので、全く知識が無くて・・・。当時はまだ“背中を見て育て”という教え方が一般的で、最初は指示される内容すら理解できませんでした。オーナーは本場フランス系の叩き上げだったので、現場では調理器具をフランス語で呼んだり、レシピもフランス語で、全然わからないんです(笑)そこで私は週1回の休みを利用して先輩と他のお店の作品を食べに行ったり、夜は勉強の時間に充てたりしていました』
———それは大学生よりハードかもしれませんし、“業界用語”は本当にどこでも苦労しますよすね。その後も同じお店で学んだのでしょうか?
『そのお店では主に焼き菓子担当で、洋生菓子も学びたかったのでお店を変えて勉強しました。焼き菓子、洋生菓子と作れるようになったところで、自分のお店を持つときに知識の無かった“カフェ”という概念を取り入れてみたいと思うようになったんです。その頃からグリーン(花屋)にも興味があったので、グリーンとカフェが一緒に出来たら面白いなって考えていました』
※どのケーキも繊細なつくりだ
———発想力がいろいろと突飛で柔軟です(笑)実際に行動に移されたんですか?
『長野県内にはグリーンとカフェが併設された建物が当時無く、関東にはいくつか店舗があることがわかったので上京してまた一から勉強を始めました。実際にスタッフやお店の雰囲気を自分の目でしっかり見て確かめたかったので、いろいろなお店へ何度も足を運びました。ここだ!と決めた都内の花屋カフェで、ホール・キッチン・グリーンなど経験のないことを沢山学ばせてもらいました。実はグリーンとスイーツって共通するところがあって、どっちも“旬“があるんです。旬の素材の使い方を両方から学ばせてもらいました』
———長野ではより四季を感じられるので、面白いかもしれませんね。開業するまでの知識をある程度学んだ裕太さんはその後、長野に戻ります。その後、どんな道のりでしたか?
『グリーン×カフェを長野で最初にやろう!と思って帰ってきたら、居ない間に長野で初めての店舗が出来ていて・・・人生ってそんな都合良くないですね(笑)開業しようと思って戻ってきたのはいいんですけど、どんな売り出し方がいいか迷っているときに先輩との会話の中で出た“流れのパティシエ”って言葉が頭に強く残ったんです。つまりフリーで働くってことなんですけど、そんな働き方の人は日本にあまり居ないので、面白いなと思い“フリーパティシエ”として働く方法を模索しました』
※ラテアートも繊細
———やっぱり突飛で柔軟(笑)フリーで働くにも製造拠点が必要だと思いますが、そのあたりはどう乗り越えたんでしょうか?
『最初は市内のいろいろなお店に「空いてるときにキッチン使わせて!」「商品置かせて!」って営業したんですけど、コロナ渦で見ず知らずの男にお店を貸すほど世の中は甘くありませんでした。坊主頭の成功で調子にのっていたのかもしれません(笑)なかなか営業が上手くいかず悩んでいたところ、中野市のチャレンジショップの話を頂いて、タイトなスケジュールではあったんですけど“チャンスだ!”と思って飛びついて、フリーパティシエとして初めて販売させて頂きました。売上目標も達成出来て、これなら店舗開業も出来る!という自信にもなりました』
———自分の足でまわって営業する、という叩き上げ思想は高校生からずっと変わらないですね!でも、その実直さが作品に出て日々多くのファンを生んでいると思います。
『私も不安な時期が沢山ありました。寝るよりも働いてる方が心が安定する時期があって、夜もずっと働いていました。正直、怖かったんです。それと、心の状態って“味“に出るんです。不安な時は味覚的にどっちつかずになったり、何を作っているのかわからなくなったりするんです。そんな時、雑誌やSNSで頑張っている人たちの活動を”敢えて“見ることで刺激を受けて原動力にしていました。また、ずっと応援してくれる方々の声援も本当に力になって、何とかお店のオープンまで辿り着くことが出来たんです』
———不安で眠れない時に“働く”という発想がすごい!他にも普段のストレス発散方法があったら教えて下さい。
『コーヒーが好きで、いろんな種類の豆をどんな風に飲めば美味しいかを探すのが楽しいんです。実は花屋カフェで働いていた時に、趣味で好きだったコーヒーの世界も経験してみたいと思い、Wワークしてコーヒースタンドでバリスタの経験も積んでいました。ラテアートが学びたかったのですが、理由は①自分で描いてみたかったから②長野県で出しているお店が当時あまりなかった、ということもあり、地元で出せば話題性になると考えていたんです。趣味もカフェのことばかりでつまらない人間です・・・(笑)』
※バリスタとしての一面も
———いえ、趣味が仕事になっているのがストレス発散に直接繋がっているのかもしれません。そんな風に働くことは私も起業に向けての参考になります。そんな裕太さんは2023年2月に立町でお店オープンされますが、お店の名前とコンセプトを改めて教えて下さい!
『Pâtisserie cafe sincere (パティスリー カフェ シンシア) と言います。sincereとは英語で「誠実な〜 」 「偽りのない〜」などの意味で、使う食材に対してはもちろん、自分に関わる全ての人やモノに正直に向き合う!!という自身の宣誓の意味合いも込めて選びました。
お店のコンセプトは私の“生き様“です。スイーツ×バリスタ“を1人で出来るというところも見どころで”飲みたいコーヒーに合わせたスイーツ“、”食べたいスイーツに合わせたコーヒー“が提供できるお店にしたいと考えています。他には月1回の限定ランチ、夜しか来れない人のために夜カフェも考えています。食品廃棄もこの業界では問題になっているので、積極的に取り組んでいきたいですね。地産地消にも力を入れて、古くからの付き合いの地元農家さん、下積み時代にお世話になった業者さん、豆の仕入れはバリスタ仲間。今まで関わった人が提携していて、私を成長させてくれた全ての人や須坂という土地に恩返しが出来るお店にしたいんです』
———生き様が開業に結びつくあたりが “土屋裕太”という人間性の表れです。拠点も出来たので”フリー“パティシエは卒業ですか?(笑)
『確かに“フリー”ではなくなりますが、その形態は残しておきたいなと考えていて、お店にこだわらず地域を盛り上げる活動をしていきたいと思っています。拠点が出来たのは精神的にも大きいですね』
———最後に、今後の夢は?
『いつかこのお店に坊主頭の高校生が“パティシエになりたいです!”って入って来たら面白いですよね(笑)それはもちろん大歓迎だし、私を育ててくれた人たちのような業界全体を考えた愛のある指導が出来ればと思っています。私自身もこれからも夢に向かってピュアな気持ちで走っていきたいです』
———“土屋裕太”の生き様、本当にカッコいいです!オープン待ちきれません・・・。長い時間インタビューありがとうございました!!
※こちらの記事はオープン前の12月に取材し、のーすもオープニングのお手伝いで参戦しました!!
【ショップ情報】
「Pâtisserie cafe sincere」
https://www.instagram.com/patisserie.cafe.sincere/
【のーすレコメンド!】
クリームも重くない、全年齢層が喜ぶショートケーキ!
【のーすレポート】
陸上部としてトラックを走り抜けてきたように、この15年を走り続けた土屋裕太さん。インタビューでも話す言葉1つ1つを慎重に選び、スイーツ作りと同様に“繊細さ“を大切にする人だと感じた。初めて出会った時から誰に対しても低姿勢で、偉ぶることもない人だった。でも、目の奥にはいつも強い信念と情熱を感じ、モノづくりでも誰でもない“土屋裕太”を大切にしている。このインタビューを書くにあたり“誠実な”裕太さんをしっかりと伝えられるか、不安になった。“誠実さ”は文章で表すのではなく、その人から溢れ出るオーラと相手の主観で感じ取るものだからだ。
そんなメンタル的にも強く見える裕太さんも、時々見せる“猪突猛進”なところがまた人間らしく、ファンが増えていく理由だと感じた。常に不安だったという若い自分の時間をしっかり夢への“貯金”として投資し続け、歳月を経て夢を叶えたことに充実感が溢れて見えた。
常に自分の“マイルール”を作り、働く場所や動き方を考えてきたからこそ失敗しても誰のせいにもせず、その足でまた進んでいけるのだろう。
裕太さんはインタビュー中も「まだスタートラインにも立っていません」と言っていた。
この先のゴールは一体どこになるのか。どこまで走り続けるのか楽しみで仕方ない。
【この記事を書いた人】
北 直樹 (自称のーす)
1986年7月3日 石川県金沢市生まれ
2022年8月神奈川県川崎市より須坂市に移住し妻と二人暮らし
現在、須坂市地域おこし協力隊として活動中
趣味:レザークラフト、野球、DIYなど
好きな歌手:吉川晃司、氷室京介
主な活動:空き家バンク、信州芋煮会
夢は須坂市の特産品で6次産業の企画・開発・営業で起業すること

2023/02/20
須坂キラビトvol.7「人生の価値観を変えた移住とおやき」
地域おこし協力隊の北直樹(自称のーす)がお届けする連載「須坂キラビト」は、須坂市に関わるキラリと光る情熱を持つ人をテーマに、活動のきっかけ、これまでの苦労や未来の活動についてもお話を伺います。
第7回目は「ゲストハウス蔵」の堀口直美さんを取材しました!
堀口直美さん(ゲストハウス蔵の前で、愛称“なおちゃん”)
長野県千曲市出身
高校卒業後に長野市の短大で国際コミュニケーションを学ぶ
一般企業へ就職するも、自分の生き方を見つめなおし愛媛への移住などを経て
2020年より須坂市のゲストハウス蔵でスタッフとして働く。
チャレンジショップやまじゅうを使ったイベント「なおちゃんのおやき」は大盛況の中、完売。
人懐っこい笑顔と性格で、なおちゃんを求めるリピーター客も多い。
1月31日をもってゲストハウス蔵を卒業、アイルランドで1年間生活する予定。
———ゲストハウス蔵のスタッフとしてだけではなく、今では「おやき」の人として須坂でもすっかり有名人です。ここに来る前はどのようなことをされていたんですか?
『千曲市の兼業農家で生まれ育ちました。長野市の短大を卒業して一般企業に就職し、実家から自転車で5分のところに勤めていました。なので、ずーっと地元に居ました(笑)ゲストハウス蔵で働くまでは須坂市とは縁もゆかりもない生活をしていました』
———すっかり須坂に馴染んでいて、ずっと須坂の人だと思っていました(笑)それもまだ須坂に来て1年半だとか?
『須坂の人はすごく距離が近くて、外から来た私に対してもフラットに接してくれるので気が付いたら人脈が広がっていました。それも“ゲストハウス“という特殊な場所に居たのもあるのかもしれません。飲食店など経営者の方もフラっと近所づきあいのようにして顔を出してくれるのでいろんな繋がりが出来ました』
———前職はどんな仕事をしていたんですか?
『前職は営業事務をしていて、積極的に人と接する仕事ではありませんでした。働いて3年目に自分の“生き方”を見直したいと思い地元近くで転職先を探していたんですが、なかなか上手くいかず、それを母に相談したら「外の世界も見てきていいんだよ」って言われて、「地元から出ていいの!?」って拍子抜けしました。というのも兄弟みんな地元で生活していて、てっきり反対されるかと思っていたんです。そこで思い切って憧れていた海と住みやすいと言われている愛媛に行って住み込みで働くことを決めました。でも、父はずっと反対してました』
———愛媛ではどんな仕事を?
『愛媛では“ゲストハウス“で働きました。全く知らない環境で過ごすことは刺激と学びの連続で、知り合いがいなかったので、地域に馴染むために、とにかく色んな場所に踏み込んで人との出会いを大切にしました。ゲストハウスに勤めた理由も昔からコミュニケーションを取るのが苦手で、そういった自分を克服したいという思いもあったんです』
———コミュニケーションの達人とずっと思ってました(笑)他にどんなことを学んだのでしょう?
『私の家は兼業農家と言いながら、ほぼ農家で、米、味噌、野菜も買ったこともなくほとんどを自給自足していました。だから愛媛で初めて野菜を買ったんです。野菜を買うことに凄い抵抗があって・・・野菜を買うことから勉強しました(笑)』
———それはすごい環境です。だいたいの家庭で揃えられませんから(笑)私も須坂に来て沢山の野菜をもらえるようになってびっくりしています。食文化は毎日のことなので、特に県外に出ると気が付きますよね。
『その環境が小さい頃は嫌で仕方ありませんでした。みんなはサイゼリアとか外食に行っているのに、自分は毎日お家ご飯で・・・。その時はありがたみを一切わかっていませんでした。実は長野の郷土料理の「おやき」も知らない人が多くて、そんな方々に振る舞いで「おやき」を作ったのがはじまりでした。小さい頃から母のおやき作りを手伝っていたので、作り方も味も身体が覚えていたんです。その時に好評だったのが嬉しくて、色々な所でおやきを作りました』
———おやきのお話はまた後でゆっくりと聞かせて下さい!愛媛からこちらに来るまではどんな生活をしていたんですか?
『愛媛の生活は充実していたんですが、コロナが流行り始めて「普通の生活」のありがたさに気が付きました。自分が決断することへの重みを感じる出来事もあり、20代のうちはやりたいことをやってみようと思ったんです。農業への興味もあったので、ミカン・サトウキビ農園でのシーズンバイトもしました。また「WWOOF」という制度を使って日本を回って機会を待つことにしました』
※WWOOF時代に旅人から教えてもらった「旅人の歌」を歌うなおちゃん
———「WWOOF」とは?
『グリーンツーリズムの1つの形で、簡単に言うと「働き手が欲しい田舎の農家」と「短期で田舎に住みたいけど家や収入は確保したい」という人同士の繋がりを支援する仕組みなんです。私も香川県で収入を得る代わりに住まいと農家カフェの運営に参加しました。ただ私が行くタイミングでカフェが火事で全焼してしまい、火事の片づけやカフェの立ち上げをすることがメインになりました。立ち上げは建物からだったので学ぶところは沢山ありました』
———そんな働き方があるんですね。移住する前にそういう働き方で現地を知るのも“あり”かもしれません!
『その後、ヨーロッパの規制緩和もあり、マルタ共和国に語学留学で2か月滞在しました。マルタは英語が共通語の国だったので、英語を学ぶチャンスと思い行く事を決めました』
———実際行ってみてどうでしたか?
『英語を話せるようになることにずっと固執していて、諸外国の方とコミュニケーションを取るために上手くなりたかったんです。行って早々、現地に英語を学びにきていたロシアの方と話す機会があって「お話してください!」ってお願いしたんです。向こうは快諾してくれて沢山質問して話してくれたんですけど、私が相手のことを質問できなくて結局会話になりませんでした。その時に“言語”は単なるコミュニケーションの“ツール“であって、言語よりも大切なのは相手に関心を持つ”誠意“だってことがわかったんです。向こうは私に誠意を持って掘り下げてくれたのに、私にはそれが出来ずモヤモヤしていました』
———そこで自分の至らなさを痛感するあたりが直美さんの人柄ですね。
『ほかにも諸外国の留学生の学ぶ姿勢も勉強になりました。失敗を恐れず下手な英語でもどんどん相手と話して、相手を知ろうとする。相手を知りたいという気持ちからきていて、学校なんだから、ミスしても相手に教えてもらえばいいやっていう貪欲さが私と全然違いました』
———学ぶ貪欲さが足りないのは、もしかしたら日本人全般に言えることかもしれません。その留学も終わりごろ、たまたまFacebookで見た求人募集を見て「ゲストハウス蔵」に勤めることになるんですね。
『姉が昔、ゲストハウス蔵に尋ねたこともあって良い評判を聞いていました。採用枠が少なかったんですけど、なぜか絶対に受かるという自信があって、応募したらやっぱり受かりました(笑)』
———それは縁ですね(笑)でも一般企業を辞めてから学んできたことが、表情や自信となって出ていたのかもしれませんね。
『移住や留学で学んだことは蔵で働いてからも役立つことになりました。オーナーの山上さんは常にゲストが“次に何をしたい”のか、“どんな情報が欲しい”のかを考えていて、いろんな提案をするんです。それは相手に関心が無いと出来ないことですし、誠意を持って提案しているから相手が嫌にならない。そんな風に見えたのも留学の成果だと思っています。でも、私はまだ全然その域には達していません(笑)』
※左からオーナーの山上万里奈さん、なおちゃん、元スタッフの寺沢さん
———オーナーは私が移住相談で初めて伺ったときも「ぶどう農家どう?」って(笑)その後も協力隊のことや、家を探す時も本当にいろいろ協力してくれて心強かったです。
『あの時の北さんもそうだったんですけど、ここに来るゲストは数ある中からこのゲストハウスを選んでいて、皆さんにとってここに来るのは“特別”なんです。だからその特別な日をしっかりとサポート出来るようにスタッフ全員がいつも考えています。私達がしているのはゲストさんの特別な日に“毎日”立ち会うことが出来る仕事だと思うんです。結構ヘビーな仕事ですが、そこが喜びを一番感じる部分です。私も愛媛の移住から人生が大きく変わったので、そういった方はより身近に考えてしまいます。でも、まさか北さんが本当に移住してくるとは思いませんでした(笑)』
———そうですよね(笑)。初めて宿泊した日の朝食に食べたおやきがまた絶品でした・・・ここらでおやきのお話をお願い致します!
『はい!「おやき」は最初、愛媛の時と同様に気まぐれで振舞っていました。蔵の近くでモーニングが出来るお店が無かったため。おやき朝食を提供してはどうかということになり、販売することになりました。また近くでもチャレンジショップが出来たことで、お店もやらせて頂けました。ここでの売り上げは全部、私個人の収益なんですけどオーナーの厚意で“ゲストハウス蔵”って看板をぶら下げさせてもらったんです。そんなバックアップもあって沢山のお客さんに来てもらいました。でも、私の段取りが悪すぎて来て頂いた皆さんを待たせてしまって・・・反省ばかりが残りました。でも、チャレンジショップでの収益は初任給を頂いた時よりももっと価値のある重いものに感じました。初めて“働いて得た収入“って感じです(笑)』
———おやき本当に美味しかったけど、小鉢もすごかった!
『先ほども話した通り、基本的には実家の味を再現しておやきは中の具材はオリジナルレシピです。小鉢も実家の料理を参考にしたオリジナルレシピで、ここにこだわりすぎたせいで皆さんを待たせてしまいました(笑)たった1年半ですが沢山の人に“おやき”を知ってもらえたのも須坂という地域柄と蔵に来たゲストさん、オーナー、みなさんのお陰と思っています』
———最後になります、今後の夢は?
『実は1月31日でゲストハウス蔵を卒業します・・・。ワーキングホリデービザを使ってアイルランドで1年間生活する予定です。アイルランドでは日本の“食文化”を伝える活動もしていきたいと思っていて、おやきも継続して作っていくつもりです。現地の施設にも入らず下宿先も自分で探し本格的に“住む”ということにチャレンジします。私の性格なので、その後どこへ行くのか何をしているかもわかりません(笑)でも、この須坂やゲストハウス蔵が大好きなのでまた絶対に須坂に戻ってきたいです。最後にお世話になったの皆さまへの気持ちを込めて自分が“おやき”で得た収益で「大感謝祭(1月28日)」を開催します!私は居なくなりますが、蔵にはスタッフ含め、地元の方やゲストさんなどいつも楽しくて素敵な人が集まってくるので是非遊びに来てください。私はまた新たな環境で頑張ります』
———なおちゃんが須坂から居なくなるのはとても寂しいですが、次のステップも笑顔で楽しんでください!須坂からみんなが応援しています!!
※大感謝祭の様子。須坂で出会った方への想いを述べ、熱いものが込み上げていた。
ゲストハウス蔵
https://www.ghkura.com/
WWOOF JAPAN
https://www.wwoofjapan.com
【のーすレポート】
私が“なおちゃん”と“おやき“に出会ったのは移住前のこと。移住体験を兼ねて訪れたゲストハウス蔵で沢山のサポートをしてもらい妻とこの地を好きになった。
つまり私の移住はなおちゃん無しでは実現しなかった。
そんな彼女は一般職を辞めるとき父からは強く反対されたそうだ。それを押し切って次はまたアイルランドに。今回も反対されるかと思ったが「責任をもってやってこい」という言葉で終わったそうだ。
それはきっと娘が県外で得た成長を見て感じた気持ちがあったからではないだろうか。
辞めることで収入が少なくなってしまう大きな抵抗はあったが、将来の不安よりも「今、コミュニケーションスキルがない」という目の前の不安を解決したいと思い、踏み切ったそうだ。それが将来の不安を解消する自分なりの方法だと考えたからだ。
将来の不安が絶えないこの世の中で「目の前の不安を潰す努力をすることで、将来の大きな不安を解消する」という考えはとても参考になる考え方だと思った。
アイルランドに行ってしまうのは蔵も須坂にとっても本当に寂しいことだが、また新たな経験を引っ提げて成長していつか帰ってくるだろう。
その時に「良い町になったね」と言われるよう活動していきたい。
【この記事を書いた人】
北 直樹 (自称のーす)
1986年7月3日 石川県金沢市生まれ
2022年8月神奈川県川崎市より須坂市に移住し妻と2人暮らし
現在、須坂市地域おこし協力隊として活動中
趣味:レザークラフト、野球、DIYなど
好きな歌手:吉川晃司、氷室京介
主な活動:空き家バンク、信州芋煮会
夢は須坂市の特産品で6次産業の企画・開発・営業で起業すること

2023/02/06
須坂キラビトvol.6「創業100年を前に。前坂理髪店の“技術”」
地域おこし協力隊の北直樹(自称のーす)がお届けする連載「須坂キラビト」は、須坂市に関わるキラリと光る情熱を持つ人をテーマに、活動のきっかけ、これまでの苦労や未来の活動についてもお話を伺います。
第6回目は須坂市上中町の「前坂理髪店 前坂拓郎さん」を取材しました。
【前坂理髪店オールスターズ】
後列左から 前坂政明さん、土屋俊之さん
前列左から 前坂明美さん、前坂拓郎さん、前坂有紗さん
前坂拓郎さん(30歳)
須坂市出身
1992年6月4日生
中野西高校を卒業後、東京の専門学校を経て千葉県浦安市の美容室で7年の下積み時代を送る。2020年に須坂市へ戻り4代目として家業を継ぎ、2024年度の100周年に向けて22年12月に理美容室としてリニューアルオープンした。
【“拓郎“との出会い】
———実は拓郎さんに会う前に私が居酒屋でお父さんとお会いし、お互いに「吉田拓郎」が好きだってところから今回のご縁を頂きました!
『父から聞いてます(笑)父はそうやってお話をして“お客さん“を作るので、本当に尊敬しています。実は私の名前の“拓郎”もご存じの通り、吉田拓郎から来ています。私が男の子と決まった時点で名前が“拓郎”に決まってたらしくて・・・(笑)』
———そうだったんですね、そうじゃないかってずっと聞いてみたかったんです。ちょっとプライベートの話になりますが、「NHKのど自慢」にも出たことがあるとか?
『今思うと凄いことなんですが・・・2020年に千葉での修業を終えて須坂に戻ってきたとき“前坂拓郎”のお客さんが全く居なかったんです。せっかく戻ったのになかなか友人や知人にも伝えられなくて、もどかしい思いをしていたところ、たまたまメセナホール関係のお客さんから「のど自慢来るらしいけど、出る?」って言われたので、これはチャンスだ!と思って応募したんです。当時は冷やかし半分で気楽に考えてました(笑)』
———もともと歌は得意だったんですか!?
『別に得意とかではなかったんですけど、子供の頃から誰よりも大きい声で歌うことに自信がありました(笑)予選も150人中審査を通るのが18人という狭き門だったので、とにかく楽しむことだけ考えていました。その後、合格の鐘までもらえるとは・・・』
———声が大きいだけでは合格しません(笑)反響は大きかったですか!?
『放送から「見たよ!」っていうお客さんも増えて、新聞が取材に来たりと、思った以上の成果がありました。本当にありがたいことです・・・。実は、のど自慢大会がコロナの影響で中止続きだったんですが、須坂で2年ぶりに開催されたんです。会場では、市職員やスタッフが開催に向けて細心の注意を払って運営している姿を見て、こんな風に知ってもらえたのも皆さんのおかげだと強く感じています』
※のど自慢大会出場の映像と出場記念に
【20代“技術“への投資】
※大切に保管されてきた創業時の料金表
———のど自慢で知り合った方も今は常連さんになるなど、拓郎さんが戻ってきてからお店に活気が戻ってきたとも言われています。集客で意識してきたことはありましたか?
『私で4代目なのですが、先代みんながいろんな集客の仕方をしてきています。私の父は会話重視型で、髪を切るというより「話に来る」お客様もいるくらい(笑)私はここに来る前に千葉で修業してきたんですけど、東京ではなく千葉を選んだ理由は「集客の技術」を学ぶためだったんです。首都圏から千葉に人を呼ぶ、という技術は長野市と須坂市の関係も同じだと思ったんです。今このお店には無い「技術」を一つでも持ち帰りたいと思い、20代はひたすら修業に費やしました。それは髪に関する技術的なものはもちろん、会話やSNSなどもそうです。今は新しい層として女性のお客様をターゲットに集客をしています』
【女性客が通える理美容店を作りたい】
※女性客の髪を整える拓郎さん
———理髪店というとどちらかというと男性イメージですね・・・
『理髪店って男性でも女性でも普通に使えるんですよ。美容院との違いはお客様にとっては“顔を剃れる”くらい。だから私は常々「女性も入れる理美容室にすれば面白いのでは?」と考えてました。そういった経緯で、修業先は女性客6割の理美容室で働くことを選びました』
———男性メインの理髪店の専門学校で学んできて、女性の髪って簡単に対応できるものなのですか!?
『やはり最初は女性の髪の扱いがわからず戸惑いだらけでした。でも、自分がここで女性客への技術を学べば父に小言を言われないと思い、現場でがむしゃらに学びました(笑)友達の誘いも何度も断り、仕事と家の往復でとにかく“技術”を学びました。そのうちに女性客への技術も、信頼も上がってきたので店長も任されました。現場で技術を学んでいくことは本当に大変でした。この世界は人に“教える“ことは基本的にしませんから。でも私の場合は小さい頃から父を見ていたこともあり、先輩や同僚を見て“技術を盗む”ことは自然に出来ていました』
———その努力が実を結んで、今回「理美容室」としてリニューアルオープンすることが出来ましたもんね!何かハードルはありましたか?
「その頃の学びや、妻が美容師だったこともあり、理美容室としてスムーズに女性客を呼べる体制が整いました。おかげで今は女性客も順調に増えています!』
———確かにSNSでも女性客が多いなという印象があります。様々な客層が来店される中で、初めてのお客様に対して気にかけていることはありますか?
『この仕事は初めて出会った人の頭や髪の毛というデリケートな場所を触るので、とにかく“安心感”を与えることにこだわっています。私は最初の“鏡の前に立った時“と”ヒアリング“で安心感を与える工夫をしています。まずは立ち振る舞いがまず堂々としていること。ヒアリングは男子高校生相手ならフラットでお兄さん目線で話す方が心を開いてくれるし、女性には髪に関するトレンドや知識の話もしっかり取り入れて「勉強してるなコイツ」って思われるようにしたり・・・もちろんこれは例の1つです。この仕事は次にお客様が再来店したときが“結果”が出るときなので、すぐに評価がわからないんです。だから目の前のお客様が満足して帰って頂けるように、その人や年代に合わせた接客を心がけています』
———私も初めて行った時にそれを強く感じました。それが出来るのは、20代の頃に費やした“技術”と“自信”なんだと思います!
【反骨精神×須坂に戻る選択】
———関東でも独立出来たと思うんですが、須坂に戻ってくることに抵抗や葛藤は無かったですか?
『ずっと心の中に“須坂”があって、いずれ戻ってくるつもりでした。もっと早く戻ってきても良かったんですけど・・・創業100周年を前にしっかりと“技術”をつけて帰ってきたかったので時間がかかってしまいました』
———こだわった“女性層への技術向上”ですよね。しっかりと考えてから家業を継ぐあたりが拓郎さんらしい。
『専門時代の友達からも「家業を継げるっていいよな」って言われたこともあって、絶対楽して継いだって思われたくなかった。だから戻ったら「自分の色を出す!」って決めていたんです。母からも「失敗したらいつでも戻ってきていいよ」って言われてたので、余計になかなか帰れませんでした(笑)でも、母のその言葉のお陰で仕事に本当に打ち込めたし、私を育てたのはそういう“反骨精神”なのかもしれません』
———そういうひねくれた感じって若い頃の男は特にありますよね(笑)改めて戻ってきた須坂はいかがでしょう?
『高校時代はわからなかったんですけど、須坂には若くて面白いお店も人も沢山いるし、これからも可能性を感じる町だなと思っています。何かを始めれば須坂ではオンリー1にもナンバー1にもなれるチャンスがある。東京ではどんなアイディアも既に出尽くされていて、産みの苦しみを味わって来たので・・・。実は理美容室も須坂では“初“なんですよ』
———須坂の理美容室は初だったんですね!説得力あります。ところで休日はどんな過ごし方をしているんですか?
『今は夫婦でアウトドアに行ったり、美味しいものを食べたり、お客さんとの会話にもなるので新しいお店や施設、イベントには出来るだけ足を運ぶようにしています。でもちょっと息抜きしたいときは1人でボーっと釣りをしています。釣りの時は仕事も家族のことも一旦忘れて釣りに集中します(笑)そうやって頭のON・OFFが出来るのでオススメです』
【最後に~30代の時間の使い方~】
———拓郎さんの想いは今後どのようになっていくのでしょうか?ビジョンがあったら教えて下さい!
『まず1番はこのお店をお客さんでいっぱいにすること。それが“親孝行”でもあるし、先代たちが守ってきたこのお店への恩返しでもあると思っているんです。お客さんにはここをパワースポットと思って頂いて、この店に来たら元気がもらえるな・・・そこは年齢も性別も関係なく感じてもらえるお店にしていきたいです。今も高校生の恋愛相談とか聞いたりもしているんですよ(笑)
もう1つは、ここで「理容師」を育てたいということ。父も先代達も沢山の理容師をここで育てて独立させてきたんです。実は長野でも理容師が減っていてほとんど“ゼロ”に近いくらい。だから理容師の仕事の楽しさもどんどん発信していきたいし、それが私を育ててくれたこの業界への恩返しと思っています。そしてこの店で修業してどんどん独立して理容室が増えていってほしいですね』
———30代は業界全体のことを考えて過ごすというアツさは拓郎さんらしくて本当に応援したくなります!長時間インタビューありがとうございました!
【リニューアルされた店内】
前坂理髪店ホームページはこちら
【のーすレコメンド!】
30代からのメンズパーマ。
髪のボリュームが落ちて来るので、自然に出すには実はパーマが簡単だったりします。私も「ニュアンスパーマ」という恰好つけたパーマをやっています(笑)
前坂さんで自然な形で仕上げてもらっていて、既にリピート確定です(笑)
はじめてのパーマの人にもパーマのチリチリ感が嫌いな人もオススメです!
【のーすレポート】
拓郎さんの熱さを肌で感じることができ、私の活動の活力になる取材になった。拓郎さんの20代の生き方は私も共通するところがあり、沢山の時間を費やしてきたからこそ“自信”となり“結果”となっているのだと感じた。さらに30代は自分の幸せだけでなく、業界全体も見据えて時間を使っていきたいという思いに経営者としてのキラリと光る情熱を感じた。
前坂理髪店に初めて足を運んだ時「こんにちは!」という全員の元気な声で迎えられ、みんなが気さくに話しかけてくれたので楽しく利用することが出来た。移住して新しいヘアメイクさんを探していた私にとってとても嬉しい出会いで、なんだか“仲間”に入れてもらえたみたいで嬉しかった。私はいろいろなところに住んできてヘアメイクは生活にとって欠かせないものだと思っている。そこで好きなヘアメイクさんに出会えるかで“住んで良かった“とも思えるし、何を隠そう大切な商談前やデート、合コンなど自分の人生に大きく左右するイベントには必ずヘアメイクが関わってきた(笑)
この度、私自身もプライベートでのフォトウェディング前に前坂理髪店にお世話になり、一生残るものを一緒に作って頂いた。やっぱり私は技術もさることながら“信頼できる人“に髪を切ってもらいたい。理容師や美容師は、人と人とを繋げる素敵な仕事なんだと今回改めて感じることが出来た。
これだけ褒めたのだから、次はもっともっとカッコよくしてくれるだろう(笑)
【この記事を書いた人】
北 直樹 (自称のーす)
1986年7月3日 石川県金沢市生まれ
2022年8月神奈川県川崎市より須坂市に移住し妻と2人暮らし
現在、須坂市地域おこし協力隊として活動中
趣味:レザークラフト、野球、DIYなど
好きな歌手:吉川晃司、氷室京介
主な活動:空き家バンク、信州芋煮会
夢は須坂市の特産品で6次産業の企画・開発・営業で起業すること

2023/01/20
須坂キラビトvol.5「“ふくだや”を守りたい」
地域おこし協力隊の北直樹(自称のーす)がお届けする連載「須坂キラビト」は、須坂市に関わるキラリと光る情熱を持つ人をテーマに、活動のきっかけ、これまでの苦労や未来の活動についてもお話を伺う。
第5回目は須坂市北横町の「ふくだや 山岸昂太さん」を取材した。
※左が昂太さん、右が2代目で父の広和さん
山岸昂太さん(28歳)
須坂市出身
高校を卒業後、医療機器販売営業として東京で働く。2年後、当時の労働環境の問題などもあり退職。実家へ帰省し、ちょうど家業の人員不足から手伝いを始めることに。今では8年目となりすっかりお店の顔となった。地元消防団などでも精力的に活動中。
【いいとも的。新崎酒店さんからのご紹介です。】
———まず前回の須坂キラビトvol.4で、新崎酒店さんがふくだやさんに憧れているというお話をしていました。息子が後を継いでくれたら・・・という夢も語っていましたので、今回は昂太さんにスポットを当ててみようかなと思いました!前回の記事も読まれたと思いますがいかがでしたか?
『新崎さんがそう言ってくれたのは素直に嬉しかったです。でも本心ですかね?(笑)私達も新崎さんにはお世話になっていまして、コロナ前、精肉店の上でスキヤキ・しゃぶしゃぶ屋をやっていた時にお酒の仕入れでもお世話になっていたんですよ』
———そうだったんですね!まさかそんな繋がりがあったとは。須坂は狭いですね・・・。
ところで、「山岸さん」なのにどうして「ふくだや」なんですか?(笑)
『北横町でお店をはじめて50年になります。先代の私の祖父が始めたのですが、実はその祖父が早くに亡くなってしまい「ふくだや」の理由がわかっていないんです(笑)当時の記録も残っていなくて・・・長野市のふくだやの暖簾分けという話もありますが、酔っぱらった時に父に話していたことらしいので、定かではありません(笑)もし須坂で他に知っている人が居たら教えて欲しいですね(笑)私達もなんでふくだやなんですか?って聞かれると、いつも困ってしまうんです(笑) 』
———そんな経緯があったんですね。今では須坂で唯一の精肉店となり知名度も上がって名前も変えるのは難しそうですね。須坂では昔から精肉店は多くなかったんですか?
『実は昔、須坂にも7件の精肉店があったんです。昔はお肉ってぜいたく品で、精肉店をすれば儲かるって時代もあったみたいなんです。でも、時代も流通も変わって、スーパーでは安いお肉が並ぶようになって、精肉店では太刀打ち出来なくなっていったんです。私達もそこはかなり苦労しました。他のお店では後継者不足なども重なったりして、最終的に「ふくだや」だけが残りました』
———ふくだやさんだけが残った理由があると思うんですがいかがでしょうか?
『たぶん、祖父達が残した味やこだわりを50年変えなかったことかもしれません。実は皆さんが良く買われる馬刺しやメンチは祖父のころからあって、味もずっと変えていないんです。だからずっと長い付き合いが出来ているのかもしれません。長野県産っていうところにも強くこだわっているので、地元の人たちも愛しやすいのかもしれません。他にも学校給食や病院、消防などいろいろなところに卸しているんですが、それも祖父の時代から変わってないんです。「変化が無い」といえばそれまでですが「変化させない」ことで沢山の人たちに喜んでもらっていることもあって、私達はそこを大切にしているんです。
他にはショーケースもずっと工夫をしてきました。よく精肉店に行くと、ショーケースの半分は何もなかったりしますよね?そんな精肉店で「これありますか?」って聞くのは結構な勇気で、なかなか言えないと思うんです。ふくだやはどんなに天気が悪くても、お客さんが来なくてもショーケースは常に満載にしています。だから活気があるように見えてお客さんも入りやすいのかもしれないですね。父からもここは強く言われていて、ずっと大切にしてきています』
※ショーケースいっぱいに並んだ商品
【創業時からの“馬刺し”へのこだわり】
———私も初めてお伺いしたときに沢山並んでいるショーケースからおすすめを聞いて、馬刺しを購入させて頂きました。とても美味しかったです。
この馬刺しにはどんなこだわりがあるのか教えて下さい!
『馬刺しは松本の目利き士さんとずっと一緒に仕事をしています。それも祖父の時代からです(笑)馬は牛と違って大量に飼育されているものでは無いですし、個体番号などもなく解体しないと脂ノリなんかもわからないんです。ただ大きい馬だからいいってわけでもない、小さければいいってものでもない。その目利き士さんは、ふくだや専用の馬を探してくるプロです(笑)そこは国産馬というところも絶対外せませんね。
あとはやっぱり値段です。高すぎても一般家庭に届かないし・・・馬の数が減っていて全国的に価格も上昇気味なんですが、松本の目利き士さんのお陰で、安くて美味しいお肉を提供出来ているんです。これも変化させなかったことが生んだものかもしれないですね。』
———変化の多い時代で「変えない選択」が出来るのは凄いことです。ご来店される方はどうでしょう?
『昔から“普段使い”される方もいます。塾帰りの中高生がメンチを買って帰ったり。そういう使い方をされるのは本当に嬉しいです。ここぞの時じゃなくても、どんどん使ってください(笑)他には先日、アメリカの方が来たり、大阪から来たり・・・移住者の方も多いんです。タイやベトナムの人も来られたりして、専用メニューも用意してます。お肉は国によって食べる部位も文化も違うので、どんな要望にも出来るだけNOと言わないようにしてます。100gでも少量でも希少部位など要望があれば基本的にNOは無しで揃えますよ(笑)』
———確かに外国文化って様々ですよね。そこに応えているところがまたすごいところです。そろそろ締めていきたいのですが、今後このお店で叶えたい夢はありますか?
『大きな変化をさせることは考えていません。出来るだけ今の“ふくだや”を守ることにこだわっていきたいんです。ふくだやが売れている理由は「50年」が積み上げてきた歴史だと思っていて、先代が作ってきた問屋さんやお客さん、皆さんが作ってきた味を守ってきたからこそ今も続けられているんです。
知り合いの人にも「商人っていうのは“小人”なんだ、偉そうになっちゃダメだぞ」と言われていて、その言葉もすごく大切にしています。
その中でもサービス面の拡充(ホームページを新たに開設!)など、私が出来る小さな変化はしていきたいんです。SNSなんかも挑戦していきたいですね。なかなか時間が無いんですけど(笑)あと新崎酒店さんとのコラボで、お肉に合う日本酒を店内に置こうかって話もしたりしています。ふくだやの歴史を聞いて、名前の由来もあいまいでびっくりしたとは思いますが、これからも100年、200年と「ふくだや」として続いていくのが私の夢ですね』
【のーすレコメンド!】
中高生達も大好きというメンチカツシリーズと馬刺し!
ハムカツが下味も付いてて絶品・・・馬刺しも赤身中心でさっぱりして日本酒熱燗と一緒に頂けば本当に最高です!
ふくだやホームページはこちら
【のーすレポート】
実はふくだやさんには地域おこし協力隊の活動の1つでもある「芋煮会」でもお世話になっていました。芋煮やお鍋にはどんな鶏肉が合うのかと相談に行ったところ福味鶏がいいよ!と教えて頂きました。その後の芋煮の味の変化を知っている方にはもう説明の必要はありませんね(笑)どんな些細な相談にもしっかりと乗ってくれて、小さな要望にも応える。そうすることでスーパーとの差別化を図り、値段では勝てないとわかっているからこそ、味・品質・サービスを追求し、それを変化させない企業努力をしてきた。それが結果として地域の“ふくだや”として定着したんだと今回、改めて感じました。
私は変化することが正義という世界で生きてきましたが「変化させない」ことも勇気で、それを貫くことも大切なのだと学びました。「変化」とは奥深い。
ふくだやさんのホームページにはお肉のすべての単価も記載されています。お客さんがお店に来てびっくり!とならないよう、価格もオープンにしてお客様へ開示しているそうです。このような正直なサービスも「ふくだや」が愛される理由なんだと思いました。
“ここぞ”でも、“いつもの”でも使える「ふくだや」。皆さんも是非足を運んでみてはいかがでしょうか。きっとそこには 「いつもと変わらない“ふくだや”」が待っていますよ。
【この記事を書いた人】
北 直樹 (自称のーす)
1986年7月3日 石川県金沢市生まれ
2022年8月神奈川県川崎市より須坂市に移住し妻と2人暮らし
現在、須坂市地域おこし協力隊として活動中
趣味:レザークラフト、野球、DIYなど
好きな歌手:吉川晃司、氷室京介
主な活動:空き家バンク、信州芋煮会
夢は須坂市の特産品で6次産業の企画・開発・営業で起業すること

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