もんじょ紹介№15
米子鉱山開発はこうして始まる-宝暦年間の場合-(竹前源治家文書から)
日本は火山が多くあり、各地で硫黄が採れました。
硫黄は古くは炬火・燃料、薬用・農薬などに使われ、続日本紀に信濃国の調(租税)として硫黄が納められたという記録があります。その後中国で黒色火薬が発明されると、火薬の原料として中国(宋)へ輸出され、日本でも鉄砲が伝わると国内での需要も大きくなったものと思われます。
米子での硫黄の採掘は、寛永2年(1624)には行われていたとされ、その後採掘者は様々変遷し、昭和35年(1960)に中外鉱業が硫黄採掘を終了するまで採掘が行われました。硫黄の採掘終後は蝋石、ダイアスポーア(共に耐火物などに使用)の採掘を行っていましたが、1973年(昭和48年) 米子鉱山は全面閉山となりました。
須坂市において硫黄の産出は、昭和初期に製糸業の衰退を補う産業として大きな役割を担い、昭和18年には須坂駅まで索道が延長され、須坂駅には引き込み線ホームが建設されました。
今回ご紹介する文書は、米子村役人が硫黄採掘請負いにあたり、坂木代官所に提出した文書です。
【読下し文】
覚
硫黄山ご運上 信州高井郡米子村
一 右硫黄山古来何年以前よりご運上山に願い奉り候や始めあい知り申さず候。尤も寛永年中より段々お請負人諸々より罷り出で候由、申し伝え候おん事
一 御留山に罷りなり候義は、古来より度々ご座候由、是は右ご運上糴上に罷りなり、その上洪水の節山崩れ等仕り、硫黄堀場押し埋め、或いは硫黄下直、扶持米高直にて稼ぎに罷りならず、お請負人ご座無く候ゆえ、お留山に仰せ付けられ候。近年お留山に罷りなる義ござ無く候おん事
一 硫黄出方の儀、弐千貫匁位より七千貫匁位に出申し候。尤諸道具其の外諸掛り失却多く相懸り申し候。硫黄石に善し悪しこれ有り、又は年により普請相懸り申し候。尤普請多く相懸り申さず候と之の訳にて増減ご座候御事
一 硫黄売り方の儀は、所にて同国の商人へ売り渡し申し候。その外同国松本辺り・松城・善光寺・須坂・中野・飯山の辺り市場へお請負人方より遣わし売り申し候。直段の義金一両に付き二十貫目位より四十貫匁位仕り候。時々に相場相替り、高下ござそうらえども、相定まり候儀はござ無く候おん事
一 硫黄掘り様の義は鷹目硫黄は金山銅山などのことく間歩を付け、六百間余り掘り入れ申し候へ共、当村硫黄山の義、総て鷹目は出かね申し候。すべて硫黄石割り取り焼き硫黄仕る。右の致し方は水最寄り悪しき所は掛け樋を仕り最寄り能き所は直に水を引き流し普請仕り、硫黄石洗い出し、搥・石鑿にて割り落とし釜をこしらえ焼き申し候。釜数は人足の多少に応じこしらえ申し候。当時は、釜五つこしらえ置き申し候。堀り子人足の儀は年々増減ござ候え共、二十人位より五十人程の間の人数にて、雪国ゆえ山内雪明け次第四月節より山入りなし仕り、十月節まで山内に小屋をかけ硫黄掘り候内は居住仕り罷りあり。尤も用事これ有の節は、下り上がり仕り候。当時二間半の梁に五間小屋一か所、二間梁に五間の小屋壱か所、三間梁に六間の小屋壱か所、九尺梁に二間半小屋壱か所等ご座候御事
一 硫黄掘り候人足、毎年四月節より十月節まで右小屋に罷りあり、掘り申し候。深山に候えども、雪積もり申さず候年はケ成りに十一月の頃まで罷りあり、あい稼ぎ、尤も冬登り申し候節は弱人足は働き致しかね候に付き、達者なるもの計り集め、小勢にて登り申し候御事
一 居村より硫黄小屋まで道法り三里小屋場より硫黄掘り場まで道法り一里ご座候事
右の通りお尋ねに付き村役人立会い吟味仕り少しも相違なく書上げ申し候、以上
高井郡米子村
宝暦三年酉七月 名主 半治郎
坂木 与頭 助右衛門
御役所 同 甚兵衛
同 兵右衛門
百姓代 地右衛門
(参考)
米子鉱山等に関する主な事項
西暦 | 年 | 事項 |
1624 | 寛永2 | 米子村にて硫黄を掘り始める |
1704 | 宝永1 | 米子村の竹前源次郎が米子鉱山の硫黄を掘る |
1719 | 享保4 | 米子村の竹前権兵衛が硫黄を採掘し幕府に献上する |
1721 | 享保6 | 井上村の源兵衛が30両の運上金で硫黄の採掘を請負う |
1729 | 享保14 | 灰野村の善右衛門と米子村の小平治の共同で硫黄請負う |
1749 | 寛延2 | 井上村の仁右衛門が18両出で硫黄採掘を行う |
1751 | 宝暦1 | 江戸神田旅籠町の小松屋藤吉及び米子村の半次郎が硫黄採掘を請負う |
1753 | 宝暦3 | 半次郎が運上金8両を納めて硫黄採掘を請負う |
1764 | 明和1 | 米子村の銀右衛門が硫黄採掘を請負う |
1780 | 安永9 | 竹前源次郎が7か所(泉坑、滝頭坑、沢場坑、大黒坑、和合院坑、恵美須坑、屋源田坑)の硫黄を採掘する |
1893 | 明治26 | 米子鉱山沢場抗の経営が藤森弥作から東京市の中北福松に移る |
1894 | 明治27 | 石川家僧侶日野忠貞が竹前源次郎より権利を買受ける |
1896 | 明治29 | 四阿山大洪水で死者多数、鉱山施設ほとんど流失する |
1898 | 明治31 | 米子鉱山沢場抗火災で60日間の営業停止 |
1902 | 明治35 | 須坂硫黄株式会社が解散し、信濃硫黄株式会社設立される |
1903 | 明治36 | 米子硫黄会社を横浜の山下亀三郎に譲渡する |
1913 | 大正2 | 2月7日落盤事故で18名死亡 |
1934 | 昭和9 | 米子鉱山を中外鉱業株式会社に譲渡する |
1943 | 昭和18 | 索道が須坂駅まで延長、引き込み線ホームが建設される |
1944 | 昭和19 | 須坂駅引き込み線ホームに、高井鉱山、横手鉱山、米子鉱山共同の貨物積込所ができる |
1952 | 昭和27 | 落盤事故により2名死亡 |
1960 | 昭和35 | 硫黄鉱山閉山。蝋石、ダイアスポーアの採掘は続く |
1973 | 昭和48 | 米子鉱山全面閉山となる |
もんじょ紹介№21
堀恭之進上京猶予伺(市川幸夫家文書から)
前回に引き続き、直虎自刃後、恭之進への家督相続に向けた活動の一端を示す文書をご紹介します。
この文書は汚損が激しく、肝心の部分の詳しい内容は読み取りにくい文書です。意訳してみると、本来ならば上京して言上すべきでありますが、「関東脱走の歩兵500人程」に対する飯山藩主 本多豊後守から援兵の要請があり、人数を派遣している(飯山蓮村出兵のことと考えられる)。また、須坂藩内へ賊徒が侵入するかもしれず、人数を用意しておかなければならない。よって、東山道鎮撫隊総督府に派遣する人数が不足し、心配なので「しばらく状況を猶予してほしい」。また、「御一新後は近領と申合せ尽力勉励する」と重臣(江戸家老)清州平馬の名で願い出ています。
この後、堀恭之進は5月14日、新政府から堀家14代としての家督相続が認められ、直明を名乗ります。
なお、あとがき部分は「御用があるので、明15日四ツ時(午前10時頃)詰所(出頭の意)」と読めますが、どのようなことかはこの文面だけではわかりません。
【上京猶予伺文】
【読下し文】
堀恭之進儀、かねて家来の者より伺いのとおり、早々上京仕るべく存じたてまつり候ところ、近領本多豊後守より使者を以って在所信州須坂へ申し越し候は、関東脱走の歩兵500人程越後国新潟に屯集罷り在り、それより信濃国へ差し向かい候趣き、飯山表通行致すべく様子に付き、援兵の儀頼み申し越し候間、人数差し出し候、且、領分へも差し越し候や計りがたく、それぞれ人数用意手配仕り候、[ ]上東山道鎮撫御総督府[ ]何分人少なく手配引き足り申さず心配仕り候、[ ]ク上京御猶予願い奉り、御一新の御場合厚く相心得、近領申し合わせ尽力勉励仕り度存じ奉り候、之により重臣家来の者を以ってご内慮伺い奉り候、以上
堀恭之進重臣
慶応4戊辰年4月28日 清須平馬
ご剪紙拝見いたし候、しからば御用の儀ござ候に付き、明15日4ツ時、御詰め所□□出旨畏れ奉り候、右御請け申し上ぐべく為、かくのごとくござ候
【参考:相続までの主な出来事】
年 | 月日 | 概要 |
慶応3年(1867) | 10月14日 | 大政奉還 |
12月5日 | 直虎若年寄兼外国総奉行に任じられる | |
10月9日 | 王政復古の大号令により新政府樹立 | |
慶応4年(1868) | 1月17日 | 直虎自刃 |
1月18日 | 病気と称して退出 | |
2月15日 | 直虎病気退職を願い出たが静養申し渡される | |
2月17日 | 太政官へ恭之進養子願書提出する | |
2月28日 | 直虎卒去を発表 | |
3月7日 | 丸山兵衛次郎、諌死に至った状況を勤皇とした「口上書取之覚」を明治政府に提出 | |
3月8日 | (朝廷に)恭之進へかとくそうぞくを願い出る | |
3月10日 | 諌死の次第を名古屋藩に届け出 | |
3月12日 | 武州桶川へ出兵 | |
3月24日 | 家督相続について最速願い出る | |
4月 | 丸山兵衛次郎、尾張大納言に差出し、上京。岩倉具視に内覧の上、御家督願書を太政官に提出する。 | |
閏4月15日 | 内閣局より総督府参謀に直虎の死因調査命じる | |
4月20日 | 北陸道出兵 | |
4月28日 | 恭之進上京猶予願いを出す | |
5月4日 | 総督府参謀より内閣局に諌死相違なき旨回答 | |
5月14日 | 太政官により直明(恭之進)家督相続が認められる | |
7月18日 | 中野五郎太夫、竹中清之丞藩命に随わず切腹(斬首) | |
9月8日 | 明治と改元 |
もんじょ紹介№21
恭之進御礼に付伺い(市川幸夫家文書から)
1868年(慶応4)1月17日(新暦では2月10日)、須坂藩主 堀直虎は江戸城中で徳川慶喜に諫言し、自刃してから156年が経とうとしています。
264年続いた徳川家による江戸幕府が大政奉還し、今後どのようになっていくのか見通せない時代に、藩主の自刃という一大事に藩の存続に向けた取り組みの一端が窺える文書を2回に分けてご紹介します。
恭之進の家督相続が新政府に認められたのは慶応4年(1868)5月14日ですが、須坂藩ではまず内蔵頭直虎を病死として旧幕府に届け、恭之進の相続を願い出たと思われます。須坂藩では中野五郎太夫を通じて旧幕府若年寄衆に御家存続の助力を働きかけていたものと思われ、この書状から若年寄からの内示があったことが窺われます。
中野五郎太夫は須坂藩内佐幕派の筆頭格であって、藩論を勤皇路線に統一することに激しく抵抗しています。藩主直虎・恭之進(直明)の側近ながら自説を曲げず、直明からの越後出兵隊長への就任要請を拒否し、切腹を命じられています。
【伺い文】
【読下し文】
堀内蔵頭願い置き奉り候通り相続仰せ付けられ、遺領相違なく恭之進へ下し置かれ、有難き幸せに存じ奉り候、右御礼若御年寄様方へ廻勤の儀、病気に付き名代を以って申し上げるべきや、又は使者を以って申し上げ候て宜し御座候や、此の段伺い奉り候、以上
堀恭之進家来
中野五郎太夫
二月二十九日
【概要】
堀内蔵守の願いのとおり家督相続が命じられ、遺領が間違いなく下されたこと、ありがたく思います。その御礼に若年寄の皆様に御礼に伺うべきところですが、(恭之進)病気のため名代をもって挨拶すべきか、使者をもって挨拶すべきかお伺いします。
重臣中野五郎太夫の名で、(若年寄へ)出されています。
酒ナシ日ノ件(八重森町区有文書から)
2024年1月1日に発生した能登半島地震では、今なお安否不明者が100人を超えるなど、被害の全容が明らかでなく、本格的な被災者支援・復旧の見通しも立っておらず、冬本番の中で厳しい避難生活を強いられている皆さんが一日も早く普通の生活に戻れることを願っています。
さて、2023年は、1923年(大正12)9月1日に発生した関東大震災から、100年目でした。関東大震災は、死者・行方不明者は約10万5000人、被害を受けた住家は総計37万棟と首都圏に未曾有の被害をもたらし、昭和35年に9月1日は防災の日と定められました。
今回ご紹介する文書は、昭和2年8月29日に、日野村役場から第四区(現八重森町)長に出された通知です。
【酒ナシ日ノ件】
来る9月1日は関東大震災4周年の記念日に相当り候に付き、全国一斉当日一日絶対に酒を飲むことを止め、以って国民精神の作興及び質実剛健の気風を発起し、而して一日平均酒の消費高四百万円の全額を他の有用の資に転用し、国民の福利を増進すべき様達せられ候間、然るべくご配慮相成り度、此の段及移喋候也
なぜこのような通知をしたのかは、須坂町役場の「社会書類編冊(昭和2年~昭和3年)に残されていました。8月22日付で財団法人日本国民禁酒同盟が社会局長あて「『酒なし日』の計画」と題する依頼文を出し、学務部長名で各市町村長あて「禁酒宣伝ニ関スル件」として通知しています。
※財団法人日本国民禁酒同盟は、現在一般財団法人日本禁酒同盟と名称変更し活動を続けています。
【学務部長通知】
社乙第六二二号
昭和二年八月二十七日
学務部長
各市町村長殿
禁酒宣伝に関する件
今回財団法人日本国民禁酒同盟会に於ては、来る九月一日関東地方震災記念日に際し、全国一斉「酒なし日」実施の計画を以って各方面の協力方申出之有たる旨を以て社会局部長よりの照会も之有たる次第に付、別紙写御含みの上、然るべき御取り計らい相求め度し
【日本国民禁酒同盟依頼文】
昭和2年8月22日
財団法人 日本国民禁酒同盟
理事長 長尾半平
社会局長 岡 隆一郎殿
一 九月一日「酒なし日」挙行に関するお願い
来る九月一日震災記念日に際し、別紙計画に依り全国一斉「酒なし日」実施につき、其の趣旨並びに実行の徹底を計る為め、地方庁各位が此挙にご協力為し下さるよう道府県に対し御勧奨方御高配賜り度く此段御願い申上げます。
(別紙)
「酒なし日」計画
一 酒なし日の趣意 九月一日大震火災記念日に当り、横死犠牲者の冥福を祈り緊張したる精神を以って国民的反省を為し、将来に向って発奮の機会たらしむるは民風作興上極めて重要事なし而して、一日四百万円を消費しつつある酒類飲用を慎むは九月一日を迎ふる最適切の方法なるは、既に三回行われし「酒なし日」の経験により明らかなり。乃ち今回一層徹底的に「酒なし日」を挙行せんとする所以なり。
二 酒なし日挙行期日 昭和二年九月一日
三 酒なし日挙行範囲 全国一斉
四 酒なし日の主催者 官民協力
道府県社会課、学務部、社会事業協会、社会事業団体、教化団体、教育会、婦人団体、青少年団、軍人会、其他の公共団体、学校、新聞社及び有志を網羅せる連合委員会(全国酒なし日同盟)を組織し、官民一致これに当たる。
五 酒なし日の行事と方法
1 九月一日に行はるべき公的会合を用ひざる事
2 各個人相戒めて飲酒を慎むこと
3 印刷物配布、ポスター掲示により趣意の徹底を計ること
4 講演会、活動写真、路傍演説、行列其他の催し事により趣意の徹底に努めること
5 ラヂオにて趣意の放送をなすこと
6 新聞雑誌に趣意及び報導の記載を依頼すること
7 学校長より学生、生徒に訓辞を為し、趣意の徹底を計るやう依頼すること
もんじょ紹介№9
須坂町の文明開化-ガス灯と並木-(岡村博文文書から)
明治7年(1874)、焼失から再建なった東京・銀座にガス灯が置かれ、桜、楓の並木が植えられました。それからわずか5年後の明治11年(1878)、片田舎の須坂の町の十字路にガス灯が建ち、並木が植えられました。
【ガス灯設置願書】
【読下し文(抜粋)】
右は今般当須坂町人民協議の上、有志者の私弁を以って、市中適宜の場所へガス灯設置、夜行便利のため毎夜点火仕りたく、もっとも路線の妨害これ無き様取り締まり向き厳重相立候あいだ、何卒ご採用成し下されたくこの段願い奉り候、以上
明治十一年十二月十一日
右有志惣代人 宮本由兵衛 ㊞
同断 玉林巳之作 ㊞
用掛 小田切新蔵 ㊞
戸長 黒川孝行 ㊞
長野県令 楢崎寛直殿
【ガス灯地図】
設置場所と思われる場所に緑色をつけましたが、地図が不鮮明なため遺漏があります。
【並木植込み】
【読下し文】
願い奉り候
北第十七大区八小区 高井郡須坂町
右は当須坂町人民一同協議の上、私弁を以って市中便利の地へ並木植込み仕りたく、もっとも只今は雪降りの時節柄ゆえ、追って着手に取り掛かりそうらえども、別紙図面相添え願い奉り候、なお又路線の妨害などなき様取締り向き厳重相立て候間、何卒ご採用なし下されたく、此の段願い奉り候、以上
明治十一年十二月二十四日
起功惣代 小田切清之丞 ㊞
代議人 小田切豊太郎 ㊞
用掛 小田切新蔵 ㊞
副戸長 中澤吉四郎 ㊞
戸長 黒川孝行 ㊞
副区長 岡村覚左衛門殿
【並木植込み地図】
設置場所と思われる場所に朱色をつけましたが、地図が不鮮明なため遺漏があり得ます。
当時の情景を記述した「上高井郡須坂町景況」には、「街頭に瓦斯燈ヲ羅点シ、樹木植込ノ景色ハ開花ノ化粧ト評スルベキカ、シカシ植込ノ樹木壮麗タル、長野大門町辺ノ並木ノ如キ御麁末ニ非ズ、殊ニ春木町辺ハ一層上等にして、就中東糀屋・和泉屋・油屋・牧屋類之助、中町ニテ高津屋等諸君ノ如キハイズレモ名木佳樹ニシテ各価数十金ナリト、其勢イ推シテ知ルベシ。」とあります。街頭へガス灯が点々と並び、その間に樹木が植えられている景色は、まさに文明開化が現れている姿なのだと自画自賛しています。
ガス燈が写っている写真は見つかっていませんが、当時の並木と思われるものが写っている印刷物(須坂繁栄画報中の写真)が「牧幸一郎家文書」にありました。
(不鮮明な画像ですが、左側に松と思われる樹木、右側にも1本の木があります)