文書館収蔵史料展示
市制施行70周年記念展「須坂市誕生と町村合併の歴史」
今回は須坂市の誕生となる豊洲村、日野村との合併と、市制施行後の井上村、高甫村の合併に関する資料を紹介します。
須坂町が豊洲村、日野村と合併し、須坂市が誕生したのは1954年(昭和29)4月1日ですが、合併の流れとしてはまず1954年2月11日に両村は解村して須坂町に合併し、その後4月1日に須坂市となっています。
3町村の合併については豊洲村役場が昭和28年に作成した「合併に関する書類(2-162)」中「合併申し入れ経過について」によると、須坂町は豊洲村、日野村に「三町村合成調査委員会を設置し合併を強力に働きかけてきた。」とあります。須坂町報によると、1949年(昭和24)から水面下では交渉をしており、正式な話し合いは1950年3月に持たれたとなっています。
豊洲村に対して合併についての正式な申し入れは、1953年(昭和28)9月2日に須坂町から合併の申し入れがされ、豊洲村では同年9月2日に受託の回答をしています。
【合併申し入れ書】


【回答書】

国が昭和の大合併を進めることとなったきっかけは1949年(昭和24)8月に出された第一次シャウプ勧告です。シャウプ勧告というと戦後日本の税制の基礎を築くこととなったイメージが強いですが、基礎自治体の財政状況を安定させ、地方自治制度を推進するための財政措置や自治体の規模について勧告を行っています。
勧告を受け政府は12月に地方行政調査委員会議を設置し、1950年12月にいわゆる「神戸勧告」を発表しました。この勧告はシャウプ勧告の原則にしたがって、地方公共団体の事務は原則として市町村に配分することとして、さらに規模の著しく小さい町村については、人口7~8,000人程度を標準として規模の合理化が必要であるとしました。(『地方自治百年史』)。政府は町村合併を推進するため、1951年1月に各都道府県知事に「地方行政調査委員会議の行政再配分の勧告に関する件」の通知を出し、市町村の規模を適正合理化し、地方公共団体の財政的基盤を強化するよう促しました。
更に1953年10月1日には町村合併促進法が施行され、町村の規模を人口八千人以上の人口を有するものを標準とし、町村合併によりこの規模としていくため、都道府県が合併計画案を作成することになりました。
上高井地方事務所では1953年11月に須坂町、豊洲村、日野村の三町村が合併し、井上村、高甫村、仁礼村、豊丘村の4村が合併する計画を示しています。
【上高井郡町村合併計画図】

しかし、1954年(昭和29)5月に長野県が示した「市町村合併計画案」では、須坂町、日野村、豊洲村、井上村の4町村が合併し、高甫村、仁礼村、豊丘村の3村が合併するというものになっています。
【長野県市町村合併計画案】





須坂市誕生後、須坂市では、1954年6月8日付で現在の市域の井上村・高甫村・仁礼村・豊丘村に合併の申し入れをしています。県が合併計画案を示す以前に、井上村は須坂市に合併する動きが既にあったものと思われます。
申し入れを受け、井上村と高甫村は1955年(昭和30)1月1日付で須坂市に編入合併していますが、両村の事情は違いました。
井上村は、須坂市からの申し出を受けて村内各組(大字・旧村)ごとに説明会を開催して調査を行い、全組が須坂市との合併に賛成したため、9月3日付でその旨回答しています。
一方高甫村は、6月9日に東部3村(高甫村、仁礼村、豊丘村)で「東部三村町村合併研究委員会」を開き、三村で合併を推進していくことを決定しています。しかし、その一方で須坂市との合併も検討しており、これが村民の認識の違いになり、結局12月4日に村民投票を行い、その結果を以って12月7日に村会で須坂市との合併を議決しています。
◆市制施行70周年記念展 須坂市誕生と町村合併
会期 10月31日(木)まで (会期中無休)
開館 午前9時~午後5時
会場 文書館展示室(旧上高井郡役所内)
観覧料 無料
※ 展示資料は、展示終了後、申請していただくといつでもご覧いただくことができます。