千曲川を渡る(相之島町区有文書から)
現在、長野市と須坂市の間の千曲川には「村山橋」「屋島橋」の2本の永久橋がかかりますが、明治期には3本のルートがありました。今回ご紹介する文書は、相之島と長沼を結ぶ渡船に関する文書です。
これらの文書からは、江戸から明治期に渡船業務の営業権が個人にあっても、その業務の公共性をわきまえ、安全円滑な運航に努めていたことがわかります。
【明治44年豊洲村地図】
【渡船業務譲渡証】
千曲川の渡船業務について、明治15年1月31日上水内郡長沼大町(現長野市長沼)の金井庄吉と金井勇治郎から、相之島村の中島茂作と小日向助作にその業務を譲渡されたことを証明する文書です。
1 渡船業務は昔から長沼大町が携わってきたこと。
2 今般相之島の両人が雇い人(船頭)の便宜を図り、機械運転による渡船業務をするとのことで示談が行き届き譲り渡すこと。
3 洪水等により川瀬が変換し渡船場の位置を変更する必要が生じた場合は、その地籍役場(相之島役場)と協議して随意変更されても何ら異議は申さないこと。
なお、この渡船業務状の内容に相違ないことを長沼大町戸長が保証しています。
【渡船営業引受確書】
明治15年2月31日、千曲川通長沼渡船場の船守(船主)から営業業務を譲り受けた相之島村の中島茂作と小日向助作は次のような確約書を長沼大町の旧栗田町宛に差し出しています。
1 長沼渡船場が在昔以来、往来の衆人通路に差支えのないよう渡船業務を営んでこられたことをわきまえ、今後とも事故や停滞のないよう心して渡船業務を進めること。
2 そのためこの度は「新発明器械」を導入し、公人私人の通行に差支えの無いように努めること。
なお、川瀬が変わり当器械使用に不便が生じた場合には、従来の渡船方式を用いるが、決して通行人は勿論、これまでの営業者にも迷惑をかけないように努める。
3 また、機械弁理のための普請などでは、長沼側岸を損ずることのないよう十分注意して工事をする。
【新発明機械】
長沼船頭の渡し船時代は、櫓をこいで千曲川を横切り、船頭の苦労は大変でした。
明治15年、相之島の中島茂作らが渡船業務を譲り受けてからは「新発明の機械」が登場します。
渡船業務引受確書の文面及び1983年まで運行された飯山市七ケ巻の渡船、小布施百話に見る渡船の仕組みから当時の「新発明の機械」が想像されます。
【約定証券】
渡船業務権の譲渡を受けた14か月後の明治16年3月、中島茂作は長沼大町の林清作(長沼村第2代村長)と船橋起業を請負い、その約定書をそれぞれの戸長役場へ差し出しています。
1 洪水などにより川瀬が変替(へんが)となり船橋位置の移動を要する時には、長沼と相之島両戸長に申し出、その指示に従うこと。
2 馬や籠などにはよらず、歩いて渉るものは無料とすること。
3 各自用物を持ち運ぶものはすべて無料とする。ただし大持ち物では気持ち程度の寸志を貰い、額の多少は問わないこと。
4 商用荷や駄賃稼ぎの荷物は、荷主の自他に関わらず橋銭を受け取る。
5 出水の節、当番が危険と判断し通行止めの措置を取った場合には、なるべく荷物にゆとりをもって運ぶようにされたい。
これらの約定について違背があったら、当日の会所番は如何様の督責もお受けします。