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投稿の詳細: 山下徹家文書から「桃山紀」

2023/05/10

山下徹家文書から「桃山紀」

11:26:16, カテゴリ:  

「もんじょ紹介」№6山下徹家文書から「桃山紀」

現在の須坂で「桃」というと千曲川堤外地で多く栽培されており、例年ですと4月中旬には北アルプスの残雪や菜の花と共にピンク色の花が楽しめます。しかし、「桃山紀」に出てくる「桃」は「杏子」のことのようです。種はキョウニン(杏仁)と呼ばれ、生薬として咳止めや痰を抑える効果があり、漢方処方にも用いられています。こうしたことから薬種商として活躍し、藩財政も支えていた山下八右衛門に植栽を命じたのでしょう。
b-88桃山紀

【読み下し文】
桃山は信濃の墨坂侯(堀家)封内(領内)の一つの丘山なり。旧名を「鎌田山」という、天保六年(1835)乙未二月君(藩主)治下の須坂の人雲佳に桃の木の種を使わし命じた。雲佳はこれを慎んで承諾し、草原を開き、これに数千本を翌年三月初めに植え終わる。それより以来、開花の時節には桃花爛漫の姿を墨坂の里より遠近遥かに望める。なお、錦繍を曝す(さらす)に似ている。奇観というべからず。人をして歓び賞えるところである。なお後年繁茂して将に信州の桃花源とならんと。よって「桃山」と名付けた。雲佳氏の開闢の功を賞すべく、いささかその端緒を記し永く世に伝える。雲佳の氏は山下、名は明、字は雲佳、餐霞(さんか)と号す。須坂の町の人なり。もとより余が知る市井の一奇人、奇特の人である。
天保九年戊戌(つちのえいぬ)六月  松斎山田文静謹
B-82 差上申御請書之事

【読み下し文】
鎌田山の御林跡の西北両平、以前須坂町四郎右衛門組の孫太郎はじめ八人の者どもへ下草を下された御場所を御引き上げになり、今般桃を植えこみ手入れ養いとして両平の下草を下さることになりました。
然る上は追手、植え込みはもちろんのこと手入れし、木立になるよう出精し油断なく致すべき旨を仰せ付けられました。
右の通り仰せ付けられ有難き幸せと畏れいっている次第です。
依ってお請けの一札を差し上げます。
須坂四郎右衛門組
八右衛門 印
天保9年(1838)戌年閏4月15日
御奉行所
前書、八右衛門へ申渡された趣きを私共も承知しました。奥印して差し上げます。
名主 牧小四郎
同断 彦太夫 印
組頭 吉兵衛 印
組合 新兵衛 印
親類 源蔵 印

【解説】
「桃山紀」は、天保期(1830~1843)に鎌田山に桃の木千本ほどが植えられ「桃山」と名付けられたことが記されている。爛漫の季節にははるか遠近の村々から望め、後年には信州の桃源郷にならん。とも述べています。
この植栽は山下家7代茂明が須坂藩第11代藩主堀直格の命により行ったものです。その功績をたたえ親交のあった墨客の山田松斎(中野町江部)が揮ごうした掛け軸です。山下家には桃山紀の関係文書が6点ほど確認されています。当時「桃」というと杏仁(きょうにん)が薬として尊ばれたことから杏子の樹のことでした。
鎌田山の御林跡の北西の草地にアンズ苗木829本を横幅9尺(約3メートル)、堅2間(約3.6メートル)宛で植えたとありまが、場所の特定はできていません。鎌田山の「西方出先より始め」ともあり、旧富士通側の斜面と思われますが、耕土が浅いので疑問が残ります。坂田の和合地籍かもしれませんが、遥か遠近の村からは望み難いため、これも疑問が残るところです。

※植栽場所については長野県史近世資料編第八巻(二)北信地方615に「天保15年10月陶器御窯場用地絵図」が掲載されており、そこに「桃山」の記載が見れます。