須坂市指定史跡(昭和47年3月1日指定)
中世(鎌倉時代から戦国時代にかけて)は戦乱の時代で、領主の住居(居館)や戦のときに立てこもる山城(やまじろ)、見張りのための小規模な砦(とりで)がたくさんありました。
大岩城は、明覚山の北側の尾根上に築かれていて、山一帯が大きな砦となっています。全長800メートル、4か所の郭(くるわ)(平らな場所)と6か所の掘り切りがあり、物見台や狼煙(のろし)台もあったと思われます。
大岩城は、豊丘の雨引城(あまびきじょう)、高山村の月生城(つきおいじょう)・馬陰城(まかげじょう)(城山城)とともに広範囲の城塞(じょうさい)群として須田氏の守りを固めていました。
大岩城からは南に井上城や長野市の春山城も遠く望め、狼煙による連絡が可能です。さらに、北は中野・飯山方面まで広範囲の動向を掌握することができたと考えられます。
須田・高梨・井上氏の勢力争いや武田・上杉氏との境界線の攻防・交通の要として、大岩城が重要な役目を果たしました。
中世、大岩城のふもとには、高井野・大岩郷が広がり、有事以外の日々には、農民としての穏やかな人々の日常の生活がありました。
広報すざか 須坂市の文化財シリーズ24
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